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社説・コラム

『潮流』 捕虜たちの「あの日」

■岩国総局長・小笠喜徳

 「熱中症警報」なるメールが「屋外でのスポーツは控えましょう」と促す日に、岩国市南部の山あいにある広島東洋カープ2軍の主戦場、由宇球場を訪れた。試合開始は午後0時半。酷暑も警報も関係なく、若ゴイたちが白球を追っていた。

 球場がある里山から北西に2、3キロ進めば、標高563メートルの氷室岳に続く。岩国・柳井市境のこの山の柳井市側、伊陸(いかち)地区に米軍のB24爆撃機が墜落したのは1945年7月28日のことである。

 墜落を目撃した藤里克享(よしたか)さん(80)は「伊陸側に落ちたのは機体だけ。乗組員は山の向こう側の祖生(岩国市周東町)などに落下傘で降下した。私は連行される機長も見た」と思い返す。

 同機は呉軍港で戦艦を攻撃中に被弾し、大竹方面から反時計回りに最後の飛行を続けたようだ。伊陸の藤中輝子さんがまとめた冊子「B24墜落」などによると9人の乗組員は次々にパラシュートで脱出。錦川上流の岩国市南河内地区から墜落地付近まで広範囲に降下し、多くが捕虜となって広島に送られる。6人がそのまま8月6日を迎えた。

 5月にオバマ大統領が平和記念公園で語った「捕虜となっていた十数人の米国人」の一部が彼らである。大統領と抱擁した森重昭さん(79)は、米政府でさえ長年公式発表しなかった被爆死した米兵を調べ上げ、同胞までを死に至らしむ戦争の理不尽さを、あらためて世に伝えた。

 亡くなった乗組員は、いずれも20代。状況と時代が違えば、赤いユニホームの選手たちと同じように、白球を追っていたかもしれない。98年、伊陸の人々は彼らを悼み、墜落地に石碑「平和の碑」まで建てた。

 球音が響く由宇で見上げた夏空からはかすかに、岩国基地に降りる米戦闘機の音が響いた。あの夏から71年がたった。

(2016年8月16日朝刊掲載)

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