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社説・コラム

[私のカープ物語] 広島復興支えた「宝物」 小説「赤ヘル1975」を書いた重松清さん

 被爆30年の1975年、広島東洋カープは初優勝した。小説「赤ヘル1975」は、この年に東京から広島に転校してきた中学1年のマナブを中心にした成長物語である。著者の重松清さんは主人公と同い年。中学、高校を隣の山口で過ごした「よそモン」のまなざしで、広島とカープが紡ぐ希望と再生の物語を描いた。(増田泉子)

 カープがなかったら広島はどんなに寂しかっただろう。ちょっとしたおしゃべりの共通話題、試合後の一杯。球団創設からしばらくは、原爆や戦争による持って行き場のない感情の落とし込みどころになって、しんどさを少しずつ忘れさせてくれたはずだ。

 「赤ヘル1975」の構想中に東日本大震災が起きた。文芸誌の連載開始を遅らせて、被災地を回った。町が消えた後の廃虚は夜の闇が深い。そこに明かりがまぶしいぐらいに光る―。例えば屋台村のような光景が、どれほど勇気を与えるか。あらためて感じた。

 旧広島市民球場ができた50年代後半、広島の街はまだ暗かっただろう。そこにカクテル光線がともった。平和を取り戻していく実感があったと思う。

 カープの歴史は広島総合球場で始まり、市民球場はその後。それなのに市民球場が広島の復興を支えたというイメージがある。この「ずれ」は、旧球場が原爆ドームに隣接し、そばには広島城やバラックが立ってて、一帯に歴史がぎゅっと詰まってるから生まれるのではないか。これも物語。被爆30年に初優勝なんて、神様がつくったようだ。

 カープが人々に勇気を与えたというのも、後からつくられた美しい物語かもしれない。今も球場に行くと、人の心を支えるスポーツの力をしみじみと感じる。2万人、3万人の視線が1点に集中し、一喜一憂する。だから僕は物語を否定しない。人が願い、紡いでいったんだよ。

 「1975」はぽつんと存在するんじゃない。「1945年の後」であり、今から41年前でもある。広島や長崎が持つ「あれから」という重み。広島は地面をめくると被爆の痕跡が残り、ドームがたたずみ、相生橋のTの字も路面電車も変わらない。東京は大空襲の爪痕を押しつぶすほど変貌した。「戦後71年」を数字で捉えるしかないんだ。

 カープの幸せは、チーム名に「広島」を掲げ続けていること。「全国区」にはならない、「わしらが支えちゃる、わしらの宝物」だ。フリーエージェント(FA)を宣言して出て行った新井(貴浩選手)を罵倒するのも、「よう帰ってきた」と涙するのも、そうした心持ち。巨人ファンはきっと、球団を自分たちの物だとは思っていないんじゃないかな。(談)=おわり

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 写真展「復興の記憶 カープ物語」(泉美術館、中国新聞社主催)は9月4日まで、広島市西区商工センターの泉美術館で。月曜休館。

しげまつ・きよし
 津山市で生まれ、中学、高校時代を山口市小郡町で過ごす。早稲田大卒。出版社勤務を経て91年、「ビフォア・ラン」でデビュー。「エイジ」で山本周五郎賞、「ビタミンF」で直木賞。ほかに「流星ワゴン」「とんび」「ファミレス」など。「赤ヘル1975」は8月に文庫になった。東京都世田谷区在住、53歳。

(2016年8月17日朝刊掲載)

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