オバマ米大統領の広島訪問:被爆地の新聞記者が見た「責任と謝罪」 そして課題
16年8月18日
【この記事は、Journalism(ジャーナリズム)2016年8月号(朝日新聞出版)に掲載された】
金崎由美
「原爆に遭ったときの話を聞いてもらえるのですか」。4月上旬、職場に高齢女性の声で電話がかかってきた。今にも泣き出しそうな息遣いである。
私の所属部署は、中高生の子ども記者「中国新聞ジュニアライター」を引率して被爆者と会い、体験証言を聞く取り組みを主要業務の一つとしている。その内容は「記憶を受け継ぐ」というタイトルで掲載し、「被爆体験を語ってくださる人を募集しています」と連絡先も添えている。そのため「生きているうちに体験を語っておかなければ」などと自薦、他薦の電話を受けることが珍しくない。
しかし、その女性は思いの丈を聞いてもらいたい一心で受話器を握ったようだった。原爆で父親と家を失い生活が一変したことや、身を寄せた親類宅でいじめられたことを打ち明けた。現在も病気がちであるうえ、きょうだいから疎まれ、孤立しているという。
被爆体験を他人に話す機会はめったにないのだろう。話は要領を得ない。その滑舌から、口に入れ歯もはめていないようだ。発音を聞き分けようと耳に意識を集中させていると、女性は「原爆さえなければ…。人生、めちゃくちゃにされた」と声を絞り、号泣し始めた。
2日後に再び電話が鳴った。話の内容はまったく同じだった。それ以降は音沙汰がない。精神的に特に憂うつな春を過ごしていたのかもしれない。人生を丸ごと奪われた上、生涯にわたって心身の健康不安を強いられること自体、最大の原爆被害である。季節が変わり、少しでも気持ちが落ち着いていることを願っている。
「原爆さえなければ」という言葉は、原爆平和報道に関わった経験のある記者なら誰もが時折聞く表現だろう。ただ、この時は悲鳴のような声が私の心にいつになく重くのしかかった。原爆投下国・米国からケリー国務長官が広島を訪れる直前の時期だったからだと思う。
電話の数日後の4月11日、ケリー氏が広島で開かれた主要7カ国(G7)外相会合に出席した。地元の小学生らが笑顔で国旗を振る中、岸田文雄外相ら他の出席者とともに、花道を行く主役のように平和記念公園を歩いた。複雑な思いで見守った。
そして、5月27日。オバマ米大統領が原爆投下国の現職の最高指導者としては初めての被爆地訪問を果たした。「71年前、雲一つない明るい朝、空から死が落ちてきて、世界は変わった」。平和記念公園の西側側道に設けられた取材用スペースから、大勢の取材記者やカメラマンに交じり演説の第一声を聞いた。
「きのこ雲の下」にいた体験者の目線からの語りである。一方、語り手が原爆を投下した当事国の最高指導者であるという事実を踏まえれば、「主語」の曖昧さに疑問を持たざるを得ない。米国から原爆を落とされて人生が変わったあの女性は、どんな思いで聞いているか。いや、死者はどう聞いているか。そんなことを考えた。
訪問を期待した8年間 実現して自戒したこと
振り返れば、米民主党の大統領候補の指名を争っていた時期から「核兵器なき世界」を唱えていたオバマ氏に、私たちは新鮮な感動と期待を抱いていた。大統領選前の2008年秋には早くも、就任を見越して「大統領になったらぜひ広島へ」という声が被爆者、行政、市民の間で、そして中国新聞紙上でも大きくなり始めた。
被爆地で現実の被害を学び、核兵器廃絶の実現へ行動してほしい、という願いからである。「被爆地がオバマ頼みの核廃絶運動でいいのか」という指摘はあり、 私も全く同じ考えなのだが、裏を返せば核軍縮が停滞し続けていることへの怒りや焦りがそれだけ強いのだ。報道する側が躍らされてはならないが、オバマ氏に心を寄せ、一喜一憂する市井の人たちをばっさりと批判する気にはなれない。
オバマ氏の今回の決断は、広島から見れば官民ともに8年間にわたって期待を発信し続けた末の「吉報」ではある。初めて米国の核問題取材を担当し、米国を旅したのが政権発足前の2008年12月だった私も、「ついに」という個人的な感概を覚えた。
こんな状況だけに、空前の歓迎ムードに報道が流されかねない危うさは尋常ではない。市政記者クラブ詰めの担当者たちを中心に事前報道を精力的に進めていたのだが、「お祭りにはしない」という問題意識は早くから、広く共有されていたと思う。
「お祭りにはしない」―。オバマ氏が被爆の実態を直視し、核兵器廃絶へ一歩前進する機会となるのか冷静に評価する。歓迎ムードにかき消されがちな異論も丁寧にすくい取る。それらの視点を軸に、地方紙報道の意義と、5月27日を経て広島が背負った数多くの課題について考え続けている。
1882人の「遺影」と地図が語るメッセージ
オバマ氏を広島に迎える5月27日付の本紙朝刊に4ページ特集が載った。メインは「ヒロシマの記録―遺影は語る」。生後9カ月から87歳までの1882人の顔写真が並んだ。かつて商店や民家がひしめいていた現・平和記念公園付近で暮らし、働き、あるいは建物疎開作業に動員され、71月年前に一瞬で焼かれた住民や生徒たちだ。
西本雅実記者が1997〜2000年に展開した連載の素材をもとにしている。若い記者を率いて遺族を探し当て、肉親 への思いを聞き、遺影を一枚ずつ託してもらった労作である。被爆前の「市街家屋図」をベースに、数々の資料や証言から肉付けして作成した戸別地図も同時掲載した。
原爆慰霊碑辺りには、工務店や和服裁縫所があった。中央の通路には、材木町郵便局や、精肉店の長尾さん……。それら全てが焼き尽くされた。オバマ氏が歩を進め、演説に立った足元に71年前にあったのは、緑豊かな美しい公園ではない。
オバマ氏はどこまで感じ取ってくれただろうか。
広島平和記念(原爆)資料館の滞在は10分間。平和記念公園全体で50分余り。短い時間の中で最も心に残ったのは原爆資料館で目にした折り鶴だった。被爆から10年後、12歳で亡くなった佐々木禎子さんが折った小さな鶴たちである。オバマ氏は「何と美しいことか」と後に感想を述べていたという。
何よりも広島を象徴し、被爆地訪問を忘れがたい記憶として焼き付ける力を持つ遺品である。とはいえ、普遍性を持つ「美しいもの」から現実にあった地獄絵図を実感することは難しい。
「原爆投下が日本降伏と第2次世界大戦の終結をもたらした」と肯定する世論が根強い米国内の事情を考えれば、オバマ氏訪問のイメージが惨劇ではなく「美しいもの」とセットになるよう、日米両政府が意図的に収れんさせたとしても不思議はない。「まずは原爆資料館をじっくり見学してほしい」と願う地元とは当初から同床異夢だった。いや、そもそも広島訪問の目的は核軍縮のメッセージをこの地から発することであり、自らが学び手となる意図はなかったろう。
側近が語る演説の意図 美しさだけ見せた日本
それでも「ここへ来た勇気は素晴らしい」という評価が大半であり、私はその筆頭だ。一方、演説内容となれば受け止めは本当にさまざま。中でも「軍縮の具体策を言ってほしかった」という声は共通している。「核兵器廃絶につなげて」というオバマ氏訪問に込めた願いからすれば当然だ。
取材者としては、少々違う角度から意外に思った部分もある。米国の「核の傘」を求める日本政府は喜ぶが、被爆地は反発する、おきまりの「同盟国を核抑止力で守る」という誓いはなかった。「いつか証言する被爆者たちの声は聞けなくなる。それでも1945年8月6日の朝の記憶を風化させてはならない」という一節は、被爆体験の次世代継承に苦心している人たちの間の合言葉。ホワイトハウスの机上で安全保障政策を練っているだけでは思いつかないはずだ。
17分間の演説にどんな意図を込めたのか。オバマ氏訪問から約40日後の7月6日、演説草稿を書いた張本人であるオバマ氏の側近、べン・ローズ大統領副補佐官に単独インタビューする好機を得て急きょ米国へ飛んだ。原爆投下を巡る国際法上の問題に対する認識なども含め、30分間にできる限りの問いをぶつけた。
(本記 インタビュー全文 )
具体策には触れず、「核兵器なき世界」への「道徳的な目覚め」を訴える詩的な演説。オバマ氏の世界観を表しているだけでない。米側の原爆投下責任と謝罪、日本側の戦争責任、の議論の両方を回避するとともに被爆者感情への配慮もにじませる、という政治的な苦心の産物であることが伝わってきた。被爆体験証言を読み込んだことも明かしてくれた。
ところで、ローズ氏自身にとって最も印象深かったのは何か。答えは「平和記念公園の美しさ」だった。短い滞在時間 にたくさんのことに目配りする役回りだったであろうことを考えると、やむを得なかったかもしれない。むしろ、美しいものだけを見せられたという面もある。原爆資料館の本館敷地では、敷石をはがして地中に埋められた街の発掘調査が続いており、銭湯「菊の湯」などの被爆遺構が掘り返されている。オバマ氏訪問に合わせて一時的に埋め戻され、何事もなかったようにされた。
「遺影は語る」の紙面を、インタビュー 時の手土産にすべきだったと悔やんだ。
「抱擁シーン」を橋渡し 報道ぶりに複雑な思い
国内外から大挙して訪れた報道関係者に交じって取材するのは、私にとって初めての経験だった。「ヒロシマが世界にどう伝わったか」をこれほど意識させられた機会はない。特に、演説会場に招待された被爆者の森重昭さん(79)がオバマ氏から抱擁されるシーンとの関わりにおいて―。
私は現在、福島第1原発事故から5年に合わせた本紙連載企画「グレーゾーン 低線量被曝の影響」を担当している。4月中旬から5月上旬に米国へ出張し、疫学や放射線物理学の研究者、核実験による健康被害を訴える市民団体などを取材していた。オバマ氏の訪問の可能性が高まっていた時期だ。日本の地方紙としては手を出しにくい「空中戦」の取材に思えたが、個人的なつてを頼りに本務と並行して関連情報の収集を試みた。
その中で5月上旬に政権関係者と会った際、「爆心地近くに10人以上の米軍POW (捕虜兵士)が収容されており、原爆の直撃を受けたことを知っているか」と投げかけたことから思わぬ事態をみた。
「知らなかった」と相手が関心を見せたため、話を続けた。「原爆投下を正しかったとする世論が根強い米国では、白国民の犠牲という不都合な真実に注目してこなかったし、遺族も沈黙してきた」。 取材で親しくしている森さんが歴史の掘り起こしや遺族捜しをしており、「原爆で失われた命や遺族の悲しみは日本も米国も同じだ、と。追悼の銘板も広島市内に設置した」と付け加えた。
オバマ氏訪問まであと5日ほどに迫った日、「森さんの電話番号を教えてほしい」と求めるメールを受けた。森さんに知らせ、ともに連絡を待った。演説への招待はぎりぎりのタイミングで届いた。
当日「ある男性はここで死亡した米国人の家族を捜し出した。その家族が失ったものは、自分自身が失ったものと同じだと気付いたからだ」という演説の一節に、「森さんの苦労が報われた」と胸が高鳴った。しかも、オバマ氏と対面する機会まで用意されていた。言葉に詰まった森さんをオバマ氏が支えるシーンには、もう理屈抜きに感動した。翌朝、政権関係者から「驚いたでしょう。あなたのおかげだ」とメールが届いた。
ところが、その頃には複雑な感情の方が募っていた。あのシーンを切り取った写真や映像が、早くもオバマ氏の広島訪問を象徴するものとして世界中を巡っていたからだ。写真が伝える「感動」は、政権関係者に米兵捕虜の話を持ち出したときの私自身の意図とずれがあった。
責任と謝罪を問わない「優しさ」が封じたこと
あのとき頭に浮かべていたのは、2014年10月にマサチューセッツ工科大学で行った歴史学者のジョン・ダワー名誉教授のインタビューだった。
自ら海外に赴き、あるいは広島を訪れる外国人と会って体験を語っている被爆者から「特に中国や韓国の人たちから、日本の軍国主義を引き合いに反発を受ける」と打ち明けられたのが取材のきっかけだ。戦争の辛酸をなめた被爆者は、日本の加害責任を謝罪しなければ悲惨な体験を聞いてもらえないのか、という素朴な問いをダワー氏に投げかけた。
そこで聞かされたのは「非人道的な被害を大きな絵として見る」という一言だった。原爆被害は戦争被害の中で特別、と考えてきた自分にとって、最初は受け入れがたい指摘だった。が、すべての被害者が他者の理不尽な痛みを直視し合い、「繰り返させない」と誓うなら、被害の安易な相対化とは違う相互理解が生まれるかもしれない、とも思い始めた。
オバマ氏が被爆地を訪れるとすれば、米兵捕虜という不都合な「味方」の犠牲も直視する機会にしてほしい。広島の人も、自分たち以外の犠牲にもっと目を向けてほしい。そんな思いだったのだ。米側に言外の意図が伝わったとは思わないが、演説の中で「朝鮮半島出身者」とともに米兵捕虜について言及されたこと自体、私は評価している。
森さんへの敬意も念頭にあったことは説明するまでもない。森さんに取材の橋渡しをしてもらったことも多々ある。20 14年12月にはユタ州の山奥でひっそりと暮らす元米兵捕虜のトーマス・カートライトさん(当時90歳)を訪ねた。広島沖で日本軍の艦砲射撃を受けて墜落した爆撃機の機長。部下6人と広島の軍施設に収監されたが、8月1日に一人だけ東京へ移送され生き残った。捕虜体験や失った部下への思いを約2時間、聞かせてくれた。 その1カ月後にカートライトさんの計報が届き、インタビューは「遺言」となった。5月27日、オバマ氏の演説に耳を傾けた森さんがバッグにしのばせていたのは、カートライトさんの遺影だった。
オバマ氏と森さんのツーショットは、思い出すたび感動がよみがえる場面だ。 同時に、それが被爆者全体と原爆投下国の大統領の「和解」、ひいては「ハッピーエンド」を示すかのように日本と世界、そして地元でも広まったというのも事実だろう。過度に単純化されたイメージは強烈であるほど、その枠に収まらない異論や事実を排除する力として働きがちだ。 被爆地から日本と世界に発するべき重要な問いを自ら封印することにつながりかねない。
ここで避けて通れないのは、原爆投下の「責任と謝罪」を巡る議論である。
被爆者といっても、被爆時の状況やその後の人生は千差万別だ。家族は皆無事で自身も負傷を免れた人がいれば、すべてを失った人もいる。疎開中に市中心部に住む親きょうだい全員を失った人は、 被爆者ではなくても最悪の原爆被害者である。大半の人は体験を語ることなく生きている。原爆孤児となった男性から3年ほど前、「かつて米国を恨んだが、自分の心の中で折り合いを付けた。怒っていては生きていけなかった」と心に閉じ込めた本心を打ち明けられたことがある。 相手をあからさまに責め続けるのをよしとしない、文化的な背景もあると思う。被爆者の多くは、単純に「謝罪はいらない」と言っているのではない。特によく聞くのは、「過去を問うて足踏みするより、将来の核兵器廃絶へ動いてもらうことに望みをつなぎたい」という言葉である。
それぞれの思いや生活の事情から、あえて過去を問わない被爆者の態度を、私は「優しさ」と表現している。米大統領の広島訪問という決断のハードルを下げたことは間違いない。原爆被害と向き合おうと志した米国の市民に対して、間口を広げることにもなっている。
とはいえ、声には出さなくても「責任と謝罪」を問い続けている被爆者は少なくない。オバマ氏訪問に合わせて在韓被爆者が広島を訪れ、米国に対しても謝罪と補償を訴えた。大量の市民を無差別に殺傷した原爆の使用は国際法違反、という指摘も根拠がある。多数派の「優しさ」はときに、「謝罪はいらない」の大合唱を下支えし、筋の通った訴えを圧倒してしまう。
初訪問を実現するため捨てたものを意識する
オバマ氏の演説に「広島と長崎で残酷な終焉を迎えた世界大戦は……」という箇所がある。微妙な表現だが、単なる時間的な順序だけでなく、「原爆が戦争にピリオドを打たせた」というニュアンスを含んでいるようにも読める。
米国では近現代史研究者の間の常識とは裏腹に、「2発の原爆が日本を降伏させた」と信じている市民が少なくない。私自身は最近8年間で延べ約160日間、 米国に出張し核戦略の動向や原爆投下を巡る世論について取材してきたのだが、原爆被害に強く思いを寄せる人からも「あれはひどすぎた。原爆が戦争を終わらせたとはいえ……」と涙を流され困惑したことは一度や二度でない。
言い換えれば、「71年前のことは戦争で仕方がなかったが、これからは二度と核兵器を使わせない」という「未来志向」が米国の強固なロジックだ。「あえて過去は問わない」という優しさは、非常に都合が良い。
ここで私が思い出すのは、2007年に久間章生元防衛相が「長崎に落とされ悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている。それに対して米国を恨むつもりはない」と発言して反発を招き、辞任に至った一件である。「優しさ」が支持する米国の「未来志向」と、被爆地の世論が辞任に追い込んだ久間氏の「しょうがない」は、果たして違うと言い切れるか。被爆地にも自己矛盾はないだろうか。
「あえて過去を問わない」ことの含意は、「オバマ氏と被爆地」の関係だけでなく「被爆国(日本政府)と被爆地」においても考えるべきだろう。
全国紙の事前報道の中で、怒りを覚えた記事があった。日本政府がオバマ政権に被爆地訪問を促す中で、「謝罪は求めない」と繰り返し伝えていたというものだ。広島県知事は「謝罪はいらない」、広島市長は「謝罪にはこだわらない」などと発言しており、それだけでも一部の地元市民団体が反発していた。市長、知事ならまだしも、米国の「核の傘」を安全保障とする政府が当事者としてヒロシマを代弁することには強烈な違和感がある。付け加えれば、オバマ氏訪問の当日計画のあらゆる要素が、日米政府レベルで地元の頭越しに決まっていった。
そんな時、オバマ氏を迎える日本政府の意図を推測させるような毎日新聞のべタ記事(5月15日)が目に留まった。安倍晋三首相が東京都内の会合であいさつした際、「原爆や戦争を恨まず、人の中に巣くう争う心と決別する。そのような歴史的訪問にしなければならない」と話したという。報道のニュアンスが正しければ、「原爆や戦争を恨まず」という感覚はあり得ない。為政者が戦争に突入していった過去にふたをするに等しい。中国や韓国の被害者はどう聞くか。
あえて過去を問わない「優しさ」は、米国国内での「原爆が戦争を終わらせた」論を図らずも補強するだけでなく、日本の加害責任の回避とも親和性を持ちうると気付かされた。オバマ氏を招くため、そして核兵器廃絶という大目標のため、あえて捨てたものの重さも自覚しなくてはならない。
声なき声や死者の無念 地元紙には伝える役割
オバマ氏が訪れた原爆慰霊碑の北に原爆供養塔がある。身元が分からない7万体以上の遺骨が安置されている。「碑」ではなく「墓」である。この前に立っても、「アメリカさん、謝罪はいらない」と聞かれる前から進んで言えるか。「未来志向で」「原爆も戦争も恨まず」と唱えることができるだろうか。被爆者ですら、自身の思いは語ることができても、一瞬で消された死者や遺族の無念さを代弁することまではできない。
オバマ氏の広島訪問を報じるとき、使命感から証言活動をしている人たちの声がどうしても中心になる。職場に電話をかけてきた女性のような、メディアには載りづらい声なき声、そして誰より、最たる犠牲者である物言えぬ「死者」への意識が知らず知らずのうちに希薄になりがちだ。 ローズ大統領副補佐官は7月6日のインタビューで、「空から死が落ちてきて……」という草稿の意図について「被爆体験に一つとして同じものはない。あえて一般化した表現の方があの瞬間のすさまじさを捉えることができると思った」と述べた。
被爆体験に一つとして同じものはない―。ホワイトハウス高官は、ここでも被爆地ならではのキーワードを口にした。今回のオバマ氏訪問は、自らの「レガシー(政治的遺産)づくり」のためだと言われ、私自身、「ローズ氏は『キューバとの国交回復に続きビッグなことがしたい』と話していた」と米国で耳にした。しかし、オバマ氏自身のヒロシマに対するかねてからの関心や、被爆体験証言から当事者の思いを的確にすくい取ったローズ氏の感受性が先にあったのも事実ではないか。
被爆体験に一つとして同じものはない。ならば地元紙の役割は、体験の一般化ではなく、一枚の写真に収まらない何百、何千もの実態を伝えることだろう。「人生、めちゃくちゃにされた」人や突然人生を絶たれた人も含めて。オバマ氏の歴史的な広島訪問の意味を、演説シーンの背景に写る原爆慰霊碑のみならず、写されなかった原爆供養塔からも考え続けたい。
金崎由美(かなざき・ゆみ)
中国新聞記者。北海道登別市生まれ。1995年、北海道大学法学部を卒業し中国新聞社へ入社。岩国総局、東京支社編集部、報道部、論説委員室などを経て2014年3月から編集局ヒロシマ平和メディアセンター。被爆65年、70年の節目などに原爆平和報道の企画連載を担当。
金崎由美
「原爆に遭ったときの話を聞いてもらえるのですか」。4月上旬、職場に高齢女性の声で電話がかかってきた。今にも泣き出しそうな息遣いである。
私の所属部署は、中高生の子ども記者「中国新聞ジュニアライター」を引率して被爆者と会い、体験証言を聞く取り組みを主要業務の一つとしている。その内容は「記憶を受け継ぐ」というタイトルで掲載し、「被爆体験を語ってくださる人を募集しています」と連絡先も添えている。そのため「生きているうちに体験を語っておかなければ」などと自薦、他薦の電話を受けることが珍しくない。
しかし、その女性は思いの丈を聞いてもらいたい一心で受話器を握ったようだった。原爆で父親と家を失い生活が一変したことや、身を寄せた親類宅でいじめられたことを打ち明けた。現在も病気がちであるうえ、きょうだいから疎まれ、孤立しているという。
被爆体験を他人に話す機会はめったにないのだろう。話は要領を得ない。その滑舌から、口に入れ歯もはめていないようだ。発音を聞き分けようと耳に意識を集中させていると、女性は「原爆さえなければ…。人生、めちゃくちゃにされた」と声を絞り、号泣し始めた。
2日後に再び電話が鳴った。話の内容はまったく同じだった。それ以降は音沙汰がない。精神的に特に憂うつな春を過ごしていたのかもしれない。人生を丸ごと奪われた上、生涯にわたって心身の健康不安を強いられること自体、最大の原爆被害である。季節が変わり、少しでも気持ちが落ち着いていることを願っている。
「原爆さえなければ」という言葉は、原爆平和報道に関わった経験のある記者なら誰もが時折聞く表現だろう。ただ、この時は悲鳴のような声が私の心にいつになく重くのしかかった。原爆投下国・米国からケリー国務長官が広島を訪れる直前の時期だったからだと思う。
電話の数日後の4月11日、ケリー氏が広島で開かれた主要7カ国(G7)外相会合に出席した。地元の小学生らが笑顔で国旗を振る中、岸田文雄外相ら他の出席者とともに、花道を行く主役のように平和記念公園を歩いた。複雑な思いで見守った。
そして、5月27日。オバマ米大統領が原爆投下国の現職の最高指導者としては初めての被爆地訪問を果たした。「71年前、雲一つない明るい朝、空から死が落ちてきて、世界は変わった」。平和記念公園の西側側道に設けられた取材用スペースから、大勢の取材記者やカメラマンに交じり演説の第一声を聞いた。
「きのこ雲の下」にいた体験者の目線からの語りである。一方、語り手が原爆を投下した当事国の最高指導者であるという事実を踏まえれば、「主語」の曖昧さに疑問を持たざるを得ない。米国から原爆を落とされて人生が変わったあの女性は、どんな思いで聞いているか。いや、死者はどう聞いているか。そんなことを考えた。
訪問を期待した8年間 実現して自戒したこと
振り返れば、米民主党の大統領候補の指名を争っていた時期から「核兵器なき世界」を唱えていたオバマ氏に、私たちは新鮮な感動と期待を抱いていた。大統領選前の2008年秋には早くも、就任を見越して「大統領になったらぜひ広島へ」という声が被爆者、行政、市民の間で、そして中国新聞紙上でも大きくなり始めた。
被爆地で現実の被害を学び、核兵器廃絶の実現へ行動してほしい、という願いからである。「被爆地がオバマ頼みの核廃絶運動でいいのか」という指摘はあり、 私も全く同じ考えなのだが、裏を返せば核軍縮が停滞し続けていることへの怒りや焦りがそれだけ強いのだ。報道する側が躍らされてはならないが、オバマ氏に心を寄せ、一喜一憂する市井の人たちをばっさりと批判する気にはなれない。
オバマ氏の今回の決断は、広島から見れば官民ともに8年間にわたって期待を発信し続けた末の「吉報」ではある。初めて米国の核問題取材を担当し、米国を旅したのが政権発足前の2008年12月だった私も、「ついに」という個人的な感概を覚えた。
こんな状況だけに、空前の歓迎ムードに報道が流されかねない危うさは尋常ではない。市政記者クラブ詰めの担当者たちを中心に事前報道を精力的に進めていたのだが、「お祭りにはしない」という問題意識は早くから、広く共有されていたと思う。
「お祭りにはしない」―。オバマ氏が被爆の実態を直視し、核兵器廃絶へ一歩前進する機会となるのか冷静に評価する。歓迎ムードにかき消されがちな異論も丁寧にすくい取る。それらの視点を軸に、地方紙報道の意義と、5月27日を経て広島が背負った数多くの課題について考え続けている。
1882人の「遺影」と地図が語るメッセージ
オバマ氏を広島に迎える5月27日付の本紙朝刊に4ページ特集が載った。メインは「ヒロシマの記録―遺影は語る」。生後9カ月から87歳までの1882人の顔写真が並んだ。かつて商店や民家がひしめいていた現・平和記念公園付近で暮らし、働き、あるいは建物疎開作業に動員され、71月年前に一瞬で焼かれた住民や生徒たちだ。
西本雅実記者が1997〜2000年に展開した連載の素材をもとにしている。若い記者を率いて遺族を探し当て、肉親 への思いを聞き、遺影を一枚ずつ託してもらった労作である。被爆前の「市街家屋図」をベースに、数々の資料や証言から肉付けして作成した戸別地図も同時掲載した。
原爆慰霊碑辺りには、工務店や和服裁縫所があった。中央の通路には、材木町郵便局や、精肉店の長尾さん……。それら全てが焼き尽くされた。オバマ氏が歩を進め、演説に立った足元に71年前にあったのは、緑豊かな美しい公園ではない。
オバマ氏はどこまで感じ取ってくれただろうか。
広島平和記念(原爆)資料館の滞在は10分間。平和記念公園全体で50分余り。短い時間の中で最も心に残ったのは原爆資料館で目にした折り鶴だった。被爆から10年後、12歳で亡くなった佐々木禎子さんが折った小さな鶴たちである。オバマ氏は「何と美しいことか」と後に感想を述べていたという。
何よりも広島を象徴し、被爆地訪問を忘れがたい記憶として焼き付ける力を持つ遺品である。とはいえ、普遍性を持つ「美しいもの」から現実にあった地獄絵図を実感することは難しい。
「原爆投下が日本降伏と第2次世界大戦の終結をもたらした」と肯定する世論が根強い米国内の事情を考えれば、オバマ氏訪問のイメージが惨劇ではなく「美しいもの」とセットになるよう、日米両政府が意図的に収れんさせたとしても不思議はない。「まずは原爆資料館をじっくり見学してほしい」と願う地元とは当初から同床異夢だった。いや、そもそも広島訪問の目的は核軍縮のメッセージをこの地から発することであり、自らが学び手となる意図はなかったろう。
側近が語る演説の意図 美しさだけ見せた日本
それでも「ここへ来た勇気は素晴らしい」という評価が大半であり、私はその筆頭だ。一方、演説内容となれば受け止めは本当にさまざま。中でも「軍縮の具体策を言ってほしかった」という声は共通している。「核兵器廃絶につなげて」というオバマ氏訪問に込めた願いからすれば当然だ。
取材者としては、少々違う角度から意外に思った部分もある。米国の「核の傘」を求める日本政府は喜ぶが、被爆地は反発する、おきまりの「同盟国を核抑止力で守る」という誓いはなかった。「いつか証言する被爆者たちの声は聞けなくなる。それでも1945年8月6日の朝の記憶を風化させてはならない」という一節は、被爆体験の次世代継承に苦心している人たちの間の合言葉。ホワイトハウスの机上で安全保障政策を練っているだけでは思いつかないはずだ。
17分間の演説にどんな意図を込めたのか。オバマ氏訪問から約40日後の7月6日、演説草稿を書いた張本人であるオバマ氏の側近、べン・ローズ大統領副補佐官に単独インタビューする好機を得て急きょ米国へ飛んだ。原爆投下を巡る国際法上の問題に対する認識なども含め、30分間にできる限りの問いをぶつけた。
(本記 インタビュー全文 )
具体策には触れず、「核兵器なき世界」への「道徳的な目覚め」を訴える詩的な演説。オバマ氏の世界観を表しているだけでない。米側の原爆投下責任と謝罪、日本側の戦争責任、の議論の両方を回避するとともに被爆者感情への配慮もにじませる、という政治的な苦心の産物であることが伝わってきた。被爆体験証言を読み込んだことも明かしてくれた。
ところで、ローズ氏自身にとって最も印象深かったのは何か。答えは「平和記念公園の美しさ」だった。短い滞在時間 にたくさんのことに目配りする役回りだったであろうことを考えると、やむを得なかったかもしれない。むしろ、美しいものだけを見せられたという面もある。原爆資料館の本館敷地では、敷石をはがして地中に埋められた街の発掘調査が続いており、銭湯「菊の湯」などの被爆遺構が掘り返されている。オバマ氏訪問に合わせて一時的に埋め戻され、何事もなかったようにされた。
「遺影は語る」の紙面を、インタビュー 時の手土産にすべきだったと悔やんだ。
「抱擁シーン」を橋渡し 報道ぶりに複雑な思い
国内外から大挙して訪れた報道関係者に交じって取材するのは、私にとって初めての経験だった。「ヒロシマが世界にどう伝わったか」をこれほど意識させられた機会はない。特に、演説会場に招待された被爆者の森重昭さん(79)がオバマ氏から抱擁されるシーンとの関わりにおいて―。
私は現在、福島第1原発事故から5年に合わせた本紙連載企画「グレーゾーン 低線量被曝の影響」を担当している。4月中旬から5月上旬に米国へ出張し、疫学や放射線物理学の研究者、核実験による健康被害を訴える市民団体などを取材していた。オバマ氏の訪問の可能性が高まっていた時期だ。日本の地方紙としては手を出しにくい「空中戦」の取材に思えたが、個人的なつてを頼りに本務と並行して関連情報の収集を試みた。
その中で5月上旬に政権関係者と会った際、「爆心地近くに10人以上の米軍POW (捕虜兵士)が収容されており、原爆の直撃を受けたことを知っているか」と投げかけたことから思わぬ事態をみた。
「知らなかった」と相手が関心を見せたため、話を続けた。「原爆投下を正しかったとする世論が根強い米国では、白国民の犠牲という不都合な真実に注目してこなかったし、遺族も沈黙してきた」。 取材で親しくしている森さんが歴史の掘り起こしや遺族捜しをしており、「原爆で失われた命や遺族の悲しみは日本も米国も同じだ、と。追悼の銘板も広島市内に設置した」と付け加えた。
オバマ氏訪問まであと5日ほどに迫った日、「森さんの電話番号を教えてほしい」と求めるメールを受けた。森さんに知らせ、ともに連絡を待った。演説への招待はぎりぎりのタイミングで届いた。
当日「ある男性はここで死亡した米国人の家族を捜し出した。その家族が失ったものは、自分自身が失ったものと同じだと気付いたからだ」という演説の一節に、「森さんの苦労が報われた」と胸が高鳴った。しかも、オバマ氏と対面する機会まで用意されていた。言葉に詰まった森さんをオバマ氏が支えるシーンには、もう理屈抜きに感動した。翌朝、政権関係者から「驚いたでしょう。あなたのおかげだ」とメールが届いた。
ところが、その頃には複雑な感情の方が募っていた。あのシーンを切り取った写真や映像が、早くもオバマ氏の広島訪問を象徴するものとして世界中を巡っていたからだ。写真が伝える「感動」は、政権関係者に米兵捕虜の話を持ち出したときの私自身の意図とずれがあった。
責任と謝罪を問わない「優しさ」が封じたこと
あのとき頭に浮かべていたのは、2014年10月にマサチューセッツ工科大学で行った歴史学者のジョン・ダワー名誉教授のインタビューだった。
自ら海外に赴き、あるいは広島を訪れる外国人と会って体験を語っている被爆者から「特に中国や韓国の人たちから、日本の軍国主義を引き合いに反発を受ける」と打ち明けられたのが取材のきっかけだ。戦争の辛酸をなめた被爆者は、日本の加害責任を謝罪しなければ悲惨な体験を聞いてもらえないのか、という素朴な問いをダワー氏に投げかけた。
そこで聞かされたのは「非人道的な被害を大きな絵として見る」という一言だった。原爆被害は戦争被害の中で特別、と考えてきた自分にとって、最初は受け入れがたい指摘だった。が、すべての被害者が他者の理不尽な痛みを直視し合い、「繰り返させない」と誓うなら、被害の安易な相対化とは違う相互理解が生まれるかもしれない、とも思い始めた。
オバマ氏が被爆地を訪れるとすれば、米兵捕虜という不都合な「味方」の犠牲も直視する機会にしてほしい。広島の人も、自分たち以外の犠牲にもっと目を向けてほしい。そんな思いだったのだ。米側に言外の意図が伝わったとは思わないが、演説の中で「朝鮮半島出身者」とともに米兵捕虜について言及されたこと自体、私は評価している。
森さんへの敬意も念頭にあったことは説明するまでもない。森さんに取材の橋渡しをしてもらったことも多々ある。20 14年12月にはユタ州の山奥でひっそりと暮らす元米兵捕虜のトーマス・カートライトさん(当時90歳)を訪ねた。広島沖で日本軍の艦砲射撃を受けて墜落した爆撃機の機長。部下6人と広島の軍施設に収監されたが、8月1日に一人だけ東京へ移送され生き残った。捕虜体験や失った部下への思いを約2時間、聞かせてくれた。 その1カ月後にカートライトさんの計報が届き、インタビューは「遺言」となった。5月27日、オバマ氏の演説に耳を傾けた森さんがバッグにしのばせていたのは、カートライトさんの遺影だった。
オバマ氏と森さんのツーショットは、思い出すたび感動がよみがえる場面だ。 同時に、それが被爆者全体と原爆投下国の大統領の「和解」、ひいては「ハッピーエンド」を示すかのように日本と世界、そして地元でも広まったというのも事実だろう。過度に単純化されたイメージは強烈であるほど、その枠に収まらない異論や事実を排除する力として働きがちだ。 被爆地から日本と世界に発するべき重要な問いを自ら封印することにつながりかねない。
ここで避けて通れないのは、原爆投下の「責任と謝罪」を巡る議論である。
被爆者といっても、被爆時の状況やその後の人生は千差万別だ。家族は皆無事で自身も負傷を免れた人がいれば、すべてを失った人もいる。疎開中に市中心部に住む親きょうだい全員を失った人は、 被爆者ではなくても最悪の原爆被害者である。大半の人は体験を語ることなく生きている。原爆孤児となった男性から3年ほど前、「かつて米国を恨んだが、自分の心の中で折り合いを付けた。怒っていては生きていけなかった」と心に閉じ込めた本心を打ち明けられたことがある。 相手をあからさまに責め続けるのをよしとしない、文化的な背景もあると思う。被爆者の多くは、単純に「謝罪はいらない」と言っているのではない。特によく聞くのは、「過去を問うて足踏みするより、将来の核兵器廃絶へ動いてもらうことに望みをつなぎたい」という言葉である。
それぞれの思いや生活の事情から、あえて過去を問わない被爆者の態度を、私は「優しさ」と表現している。米大統領の広島訪問という決断のハードルを下げたことは間違いない。原爆被害と向き合おうと志した米国の市民に対して、間口を広げることにもなっている。
とはいえ、声には出さなくても「責任と謝罪」を問い続けている被爆者は少なくない。オバマ氏訪問に合わせて在韓被爆者が広島を訪れ、米国に対しても謝罪と補償を訴えた。大量の市民を無差別に殺傷した原爆の使用は国際法違反、という指摘も根拠がある。多数派の「優しさ」はときに、「謝罪はいらない」の大合唱を下支えし、筋の通った訴えを圧倒してしまう。
初訪問を実現するため捨てたものを意識する
オバマ氏の演説に「広島と長崎で残酷な終焉を迎えた世界大戦は……」という箇所がある。微妙な表現だが、単なる時間的な順序だけでなく、「原爆が戦争にピリオドを打たせた」というニュアンスを含んでいるようにも読める。
米国では近現代史研究者の間の常識とは裏腹に、「2発の原爆が日本を降伏させた」と信じている市民が少なくない。私自身は最近8年間で延べ約160日間、 米国に出張し核戦略の動向や原爆投下を巡る世論について取材してきたのだが、原爆被害に強く思いを寄せる人からも「あれはひどすぎた。原爆が戦争を終わらせたとはいえ……」と涙を流され困惑したことは一度や二度でない。
言い換えれば、「71年前のことは戦争で仕方がなかったが、これからは二度と核兵器を使わせない」という「未来志向」が米国の強固なロジックだ。「あえて過去は問わない」という優しさは、非常に都合が良い。
ここで私が思い出すのは、2007年に久間章生元防衛相が「長崎に落とされ悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている。それに対して米国を恨むつもりはない」と発言して反発を招き、辞任に至った一件である。「優しさ」が支持する米国の「未来志向」と、被爆地の世論が辞任に追い込んだ久間氏の「しょうがない」は、果たして違うと言い切れるか。被爆地にも自己矛盾はないだろうか。
「あえて過去を問わない」ことの含意は、「オバマ氏と被爆地」の関係だけでなく「被爆国(日本政府)と被爆地」においても考えるべきだろう。
全国紙の事前報道の中で、怒りを覚えた記事があった。日本政府がオバマ政権に被爆地訪問を促す中で、「謝罪は求めない」と繰り返し伝えていたというものだ。広島県知事は「謝罪はいらない」、広島市長は「謝罪にはこだわらない」などと発言しており、それだけでも一部の地元市民団体が反発していた。市長、知事ならまだしも、米国の「核の傘」を安全保障とする政府が当事者としてヒロシマを代弁することには強烈な違和感がある。付け加えれば、オバマ氏訪問の当日計画のあらゆる要素が、日米政府レベルで地元の頭越しに決まっていった。
そんな時、オバマ氏を迎える日本政府の意図を推測させるような毎日新聞のべタ記事(5月15日)が目に留まった。安倍晋三首相が東京都内の会合であいさつした際、「原爆や戦争を恨まず、人の中に巣くう争う心と決別する。そのような歴史的訪問にしなければならない」と話したという。報道のニュアンスが正しければ、「原爆や戦争を恨まず」という感覚はあり得ない。為政者が戦争に突入していった過去にふたをするに等しい。中国や韓国の被害者はどう聞くか。
あえて過去を問わない「優しさ」は、米国国内での「原爆が戦争を終わらせた」論を図らずも補強するだけでなく、日本の加害責任の回避とも親和性を持ちうると気付かされた。オバマ氏を招くため、そして核兵器廃絶という大目標のため、あえて捨てたものの重さも自覚しなくてはならない。
声なき声や死者の無念 地元紙には伝える役割
オバマ氏が訪れた原爆慰霊碑の北に原爆供養塔がある。身元が分からない7万体以上の遺骨が安置されている。「碑」ではなく「墓」である。この前に立っても、「アメリカさん、謝罪はいらない」と聞かれる前から進んで言えるか。「未来志向で」「原爆も戦争も恨まず」と唱えることができるだろうか。被爆者ですら、自身の思いは語ることができても、一瞬で消された死者や遺族の無念さを代弁することまではできない。
オバマ氏の広島訪問を報じるとき、使命感から証言活動をしている人たちの声がどうしても中心になる。職場に電話をかけてきた女性のような、メディアには載りづらい声なき声、そして誰より、最たる犠牲者である物言えぬ「死者」への意識が知らず知らずのうちに希薄になりがちだ。 ローズ大統領副補佐官は7月6日のインタビューで、「空から死が落ちてきて……」という草稿の意図について「被爆体験に一つとして同じものはない。あえて一般化した表現の方があの瞬間のすさまじさを捉えることができると思った」と述べた。
被爆体験に一つとして同じものはない―。ホワイトハウス高官は、ここでも被爆地ならではのキーワードを口にした。今回のオバマ氏訪問は、自らの「レガシー(政治的遺産)づくり」のためだと言われ、私自身、「ローズ氏は『キューバとの国交回復に続きビッグなことがしたい』と話していた」と米国で耳にした。しかし、オバマ氏自身のヒロシマに対するかねてからの関心や、被爆体験証言から当事者の思いを的確にすくい取ったローズ氏の感受性が先にあったのも事実ではないか。
被爆体験に一つとして同じものはない。ならば地元紙の役割は、体験の一般化ではなく、一枚の写真に収まらない何百、何千もの実態を伝えることだろう。「人生、めちゃくちゃにされた」人や突然人生を絶たれた人も含めて。オバマ氏の歴史的な広島訪問の意味を、演説シーンの背景に写る原爆慰霊碑のみならず、写されなかった原爆供養塔からも考え続けたい。
金崎由美(かなざき・ゆみ)
中国新聞記者。北海道登別市生まれ。1995年、北海道大学法学部を卒業し中国新聞社へ入社。岩国総局、東京支社編集部、報道部、論説委員室などを経て2014年3月から編集局ヒロシマ平和メディアセンター。被爆65年、70年の節目などに原爆平和報道の企画連載を担当。