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「回天」突撃 19歳の遺書 周南の記念館に弟寄贈

 人間魚雷「回天」に乗り込み、19歳で戦死した少年兵が当時5歳の弟に宛てた遺書が31日、基地のあった周南市大津島の市回天記念館に寄贈された。少年兵の弟で、米国で暮らす新潟市出身の本井文昭さん(72)が「兄の無念さを後世に伝えてほしい」と帰国し、記念館を訪れて手渡した。(岩崎秀史)

 兄の文哉さんは1944年12月30日、大津島の基地を出撃。翌45年1月12日、北太平洋のグアム南西のウルシー海域で回天に乗り、敵艦に突撃死した。遺書は戦死2日前に書いたとみられる。

 文昭さんへの遺書は2種類あり、一通は便箋2枚に幼い弟を思い、全文を片仮名で書いている。親孝行し、寂しがらず勉強に励むようつづり、最後に「フミアキヤ、サヨウナラ」と告げる。もう一通は便箋1枚に漢字と平仮名で書き「越後特有の不屈の頑張りを持って進め」と励ましている。

 文昭さんは「優しい兄だった。私への愛情と、死んでも死にきれない無念さがにじみ出ている」と話す。遺書は終戦後に実家へ届いたが初めて読んだとき涙がこぼれたという。

 兄は出撃の20日前、新潟市の実家へ帰ってきた。出撃について一切語らず1泊し、別れ際に厳しい表情だったのを覚えている。「いま思えば既に出撃の命令を受けていたのだろう。わずか19歳で国に殉じた。平和な時代、多くの人に読んでもらいたい」と願う。

 文昭さんは66年に渡米。ニューヨークで公認会計士をしている。遺書は実家できり箱に収めて保管していた。

 この日、姉の本井昌さん(84)=新潟市=と回天記念館を訪問。松本紀是館長に遺書を手渡し、記念館前に並ぶ兄の名前を刻んだ碑に墨を入れた。松本館長は「戦争の悲惨さを伝え続けたい」と話し、遺書は7月から館内で展示する。

 文昭さんは70歳を過ぎて寄贈を思い立ち、大津島へ渡るのは4回目という。「今回が最後の訪問だろう。遺書は私だけでなく国の宝。後世の人に受け継いでほしい」と話していた。

遺書の要旨

 本井文哉さんが弟の文昭さんに宛てた遺書の要旨は次の通り。

 (中略)フミアキハ、ニイサンノブンマデ、オトウサマ、オカアサマニ、コウコウシテクダサイ。(中略)

 ケッシテビョウキニナンカカカラヌヨウニ、カラダニキヲツケテクダサイ。ニイサンハイマ、フミアキガカイテクレタヒコウキト、グンカント、センシャノエヲミテイマス。モウニイサンハ、フミアキニテガミヲアゲラレナイケレドモ、フミアキハ、サビシガラナイデクダサイ。

 イツデモニイサンハ、フミアキヲミテオリマスカラ、イママデトオナジヨウニ(中略)シッカリベンキョウシテクダサイ。

 フミアキヤ、サヨウナラ。

(2012年6月1日朝刊掲載)

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