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連載・特集

人文学の挑戦 <8> ヒロシマ像を探る 「平和都市」の内実問う

 被爆地広島は、象徴的に「ヒロシマ」とも表記される。「平和都市」として、「ヒロシマは許さない」といった人格的な表現がされることもある。比類のない象徴性を帯びたその都市像は、どう形成されていったのか。都市社会学や都市計画史の視座で向き合い、課題や展望を引き出そうとする学究の試みがある。(道面雅量)

 「<広島>の思想―いくつもの戦後史」。思想・哲学の専門誌「現代思想」(青土社)は、そう銘打った特集を8月号に組んだ。哲学や政治、文学、美術など多彩な分野の論客が寄稿した中で、東京外国語大大学院博士後期課程に在籍する仙波希望(のぞむ)さん(28)の論考は、異彩を放つ一編だ。

 広島市安佐南区出身で、専門は都市社会学。論考では、1960年代末から70年代にかけて再開発された中区基町の旧太田川東岸、相生通りを主題に、「平和都市」ヒロシマを見詰めた。「一つの都市が理念の下につくられる時に何が起きるか。広島だからこそ掘り下げられる視点」。特集を担当した編集者の押川淳さん(37)は、そんな手応えを感じたという。

相生通りの呼び名

 仙波さんが試みたのは、現在の高層アパート群へ再開発された基町のバラック街が、「原爆スラム」と呼ばれたことへの批判的検証だ。「原爆によって焦土と化した広島は、その瞬間に『平和都市』となったわけではない。ひるがえって相生通りは、その街ができた時から『原爆スラム』となったわけではない」。論考の一節が、問題意識を端的に示す。

 「原爆スラム」という言葉が頻繁に使われ始めるのは64年ごろ。仙波さんによると、当初は「被爆者援護を訴える上で、市内に散在するバラック街を一般的に指す言葉だった」。

 ところが、66年から本格化する河岸緑地の不法建築対策事業で、平和記念公園(中区)にも近い基町のバラック街が焦点化し、「相生通りイコール『原爆スラム』という認識が広がっていった」。70年代に入ると、市の行政の中で「基町のスラム解消なくして広島の戦災復興は終わらない」といった発言が繰り返されるようになる。

 一方、68年の大阪市立大の調査では、相生通りの住民の51・2%が「永住」を望み、29・4%が長期的な居住を求めている。70年、広島大の学生や大学院生が取り組んだ詳細な実態調査も、防火や衛生上の課題を挙げつつ、近所同士の助け合い、たくましい工夫に満ちた暮らしを活写した。「大火も相次いだ中、再開発は必要なかったとは思わないが、ここでの暮らしに多くの住民が愛着を抱いていたのも確か」と仙波さん。73年、現地を歩いた建築家石井和紘は「ぼくたちの生い育った原風景ではないか」「こんなものをスラムというなら、そこら中スラムだ」と印象を記した。

市民意識を「動員」
 そんな相生通りが再開発される以前に、被爆後の広島で「平和都市」の理念がどう市民に浸透していたかについても、仙波さんは論考で言及する。

 「広島平和記念都市建設法」の対象となるための市民投票が行われた49年。投票を呼び掛けるポスターには、「更地」として描かれた広島の上に「平和を愛する熱意を示そう」のキャッチフレーズが躍った。58年、平和記念公園などを会場に「広島復興大博覧会」が開かれ、メイン施設の「復興館」では「平和都市を標榜(ひょうぼう)する広島を、真にその名に値する立派な都市として完成」しよう、とのナレーションが流れた。

 仙波さんは、これらのイベントを通じた市民意識の「動員」に、相生通りが「原爆スラム」と否定的に名付けられた素地をみる。「焦土の広島は『平和都市』となることで復興を果たし、相生通りは『原爆スラム』にされることで『平和都市』からこぼれ落ちたのではないか」。相生通りの視点から「平和都市」を見据える時、「平和の中身をただすことのないまま、多様な声をひとまとめにする危うさ」を感じるという。

 「例えば『オバマ米大統領の訪問を、ヒロシマは歓迎した』と言っていいのか。その時、平和都市の『平和』とは核兵器廃絶なのか、戦争廃絶なのか、日米同盟の安定なのか」

 あいまいなイメージではない、内実を伴った多様な議論と実践のあるヒロシマであれ―。そんな思いを研究に込める。

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インタビュー

広島諸事・地域再生研究所 石丸紀興代表

復興史に学ぶ姿勢大切

 都市計画の専門家として長年、広島大や広島国際大の教壇に立った石丸紀興さん。理系の工学部に主に在籍しながら、広島の戦後復興史を、関係者への地道な聞き取りなどでつぶさに追い掛けた。ヒロシマ像の行方に今もまなざしを向け続ける。

  ―戦後の広島で都市計画が果たした役割の大きさに注目されてきましたね。
 戦後復興に計画的に取り組んだ多くの都市の中でも、広島市は奇跡的な達成を果たした。官僚主導の計画だが、希望と情熱がたぎっていた。海外の大都市をモデルに背伸びした内容ながら、平和記念都市建設法の適用で財源を得ることができた。

 「平和都市」の理念自体は、市の復興顧問を務めた米軍中尉ジョン・D・モンゴメリーら、外国人の提言が先駆け的に作用した。都市をモニュメント化する彼らの発想が日本人の側で発酵し、丹下健三による平和記念公園のプランなどに結実したと捉えている。

  ―官主導の計画は、市民意識も変えていったのでしょうか。
 平和記念公園が、極めて象徴的な空間を生み出したのは大きい。市長が平和宣言を読み上げる場として、オバマ米大統領の来訪時もそうだったように、「平和都市」のイメージが日本中、世界中に発信される。市民の自意識にも跳ね返るはすだ。

  ―都市がモニュメント化することには、影の部分もありませんか。
 原爆資料館の敷地で今、被爆前に中島地区にあった町並みの発掘調査が進んでいるのは、示唆的かもしれない。かつてそこにあった日常が破壊されたことが、美しい公園に覆われるようにして、具体的に意識されにくくなる側面がある。

 基町再開発を巡っても、復興史としてのバラック街の存在を知ることは大切と思うが、画期的な高層アパート群の中にその痕跡をたどるのは難しい。

  ―復興史研究のきっかけは。
 1966年に広島大に助手として赴任し、市内の土地利用の現況調査に関わった。その過程で「100メートル道路(平和大通り)は私が計画の線を引いたんだ」という広島県庁OBの話を聞き、「面白い」と思ったのが最初。78年から本格的に聞き取り調査をし、「広島新史」の執筆にも参加して、深入りした。

  ―現在、広島諸事・地域再生研究所代表という肩書です。どんな意味を込めていますか。
 復興史を追った経験と蓄積を、まちづくりにさまざまに生かせたらと思っている。広島大旧理学部1号館(中区)や旧陸軍被服支廠(ししょう)(南区)など、被爆建物の有効活用に向けた提言も重ねてきた。上滑りではないヒロシマのまちづくりには、歴史に学ぶことが何より大切だ。

いしまる・のりおき
 1940年旧満州(中国東北部)生まれ。井原市で育ち、66年に東京大大学院工学研究科修士課程修了。広島大教授、広島国際大教授などを歴任。2003年中国文化賞、07年日本建築学会賞。11年6月から現職。

(2016年8月24日朝刊掲載)

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