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社説・コラム

『論』 8月15日の「儀式」 時流に抗するとりでを

■論説委員・石丸賢

 「僕にとっての終戦は3月10日」と、故郷を焼け野原にした東京大空襲にこだわっていた放送タレントの永六輔さんが逝き、新聞記者として自身の戦争責任から目をそらさなかった、むのたけじさんの訃報も先日もたらされた。寂しさが募る夏である。

 柔と剛の違いはあっても、反戦を唱え続けた2人。「その思いを忘れてはならない」といった追悼の声が聞こえてくる。

 しかし、戦後も戦後、高度成長期生まれの私には、戦争体験などない。いったい何を、どう引き継げるだろう。

 そんな思いを引きずり、読みさしの本を整理していて、1冊に巻かれた帯広告に目が留まった。

 「大政翼賛会の気分は日本に残っている。頭をさげていれば戦後は通りすぎるという共通の理解である」

 1年前の夏に他界した哲学者、鶴見俊輔さんの文章である。

 戦時中、既存の政党は解党し、大政翼賛会に合流していく。国民は互いを監視し合い、国策に同調していった。戦後、民主主義に裏返った価値観もいつか、ひっくり返らないとも限らない。頭を低くして、声の大きな方になびいていればいいさ―。そんな風潮を「大政翼賛会の気分」と呼ぶなら、なるほど71年目の戦後とはいえ思い当たる節がある。

 折しも、晩年の鶴見さんに寄り添った京都市内の小さな出版社、編集グループSURE(シュア)から今月、生涯の仕事を振り返るシリーズの刊行が始まった。

 1冊目の表紙に、くぎ付けになった。鶴見さんが丸刈り頭で写っている。1964年ごろの写真というから、同志社大で新聞学を教えていた時分らしい。キリスト教主義教育の大学構内を僧侶のような、いがぐり頭の教授が大手を振って歩いていたかと思うと、何だかおかしい。

 そのころ、毎年8月15日に同世代の3人で落ち合い、代わりばんこに頭を丸めていたという。相棒の2人は、日本戦没学生記念会(わだつみ会)の常任理事を務めた評論家の故安田武さんと、やはり評論家の山田宗睦さん。

 戦中派の3人にとって、丸刈り頭やふんどしは、徴兵の検査に始まって敗戦まで、成人男子として余儀なくされてきた身なりにほかならない。

 当時の自分に立ち返るとともに、戦争犠牲者の「声」にも思いをはせようとしたのだろう。とりわけ安田さんは戦場で、隣の戦友が頭を狙撃されて即死。「あいつと俺の運命が逆になっていても不思議ではない」との思いから生涯、戦争体験を問い続けた。

 戦前、戦中から地続きのものとして、戦後日本の行く末を見定める。そうした視野を取り戻す「儀式」でもあったろう。

 「儀式」に先立つ60年安保の時、鶴見さんは東京工業大助教授(当時)の職をなげうっている。時の岸信介内閣が警官隊を導入し、国会で日米安保条約改定の強行採決をしたことに抗議して、いち早く大学教授を辞した中国文学者の竹内好さんに続いた。

 戦争への怒りが薄れ、戦時中のあり方に対する反省がないがしろにされようとしている。どんどん変わっていく戦後の社会がしっくりこない。そうした違和感を手放さないための工夫はないか、と考えていたのかもしれない。

 8月15日の集いを考えついた鶴見さんと安田さんに共通した思いを、山田さんが随筆集に書き留めている。

 「関東大震災のあと、毎年その日がくると、梅干しの握(にぎ)り飯だけを食べて、忘れずに震災をしのんだ(中略)これだ! 忘れないために小さな行事をつづけよう」

 時流に抗する。そのとりでとして、「小さな行事」を保つことができるかどうか。鶴見さんたちからの宿題とも受け取れる。

 昨今の世論調査を見る限り、少数派の自覚が私にはある。多数派の同調圧力を押し返すには、どんなとりでを築けばいいのだろう。今は思い浮かばない。それは恐らく、日々の暮らしの中で、こだわりを積み重ねていけるかに懸かっている。

(2016年8月25日朝刊掲載)

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