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連載・特集

緑地帯 ベルリン―ヒロシマ通信 柿木伸之 <4>

 哲学するとは、今どのような時代に、どのような世界に生きているのかを見据え、生きること自体を掘り下げることであろう。日常生活の前提をも問うた先に初めて、生き直す見通しが徐々に開けてくるのではないか。

 このように考えながら研究を進める際に、ベンヤミンの影響下で思想形成を遂げた哲学者テオドーア・W・アドルノが投げ掛けた問いを忘れることはできない。

 彼は戦後の著作で、アウシュヴィッツの後に生きることは許されるか、と提起した。皮膚や毛髪に至るまで人体を使い尽くし、死をサンプルの消滅として処理するシステムを、人間は自らつくり出してしまった。その後で、そもそも生きることができるのか。この問いを引き受けることのない哲学は、おめでたい夢想であろう。アドルノは、人間性の実現過程として構想された人類史は、石斧(せきふ)から核兵器に至る歴史として具現したとも述べている。

 生きることと根本的に両立し得ないものに、人間が自分自身を晒(さら)すに至った「進歩」。それがこのまま続くことにあらがい、生きる道を探る歴史への問いこそ、ベンヤミンの思考から受け継がれるべきであろう。

 彼は著作の中に「歴史の天使」を浮かび上がらせる。破局に破局を積み重ねていく「進歩」の暴風にあおられながら、歴史の瓦礫(がれき)を拾い上げ、継ぎ合わせるように、生者へ向かって死者の記憶を呼び覚ます存在。その像が暗示する、もうひとつの歴史を探究する上で、ベルリンは刺激に満ちた記憶の場所である。(広島市立大准教授=広島市)

(2016年9月2日朝刊掲載)

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