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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 新畑正夫さん―辺り真っ暗 手探り避難

左手が不自由に。自分に青春時代なかった

 戦争、そして原爆は、新畑正夫さん(84)の人生を大きく変えました。被爆による障害と、転々とする住まい。両親も他界し、学校にも通えないまま。左手は今も思うように動きません。「自分に青春時代はなかった」。それでも懸命(けんめい)に生き抜(ぬ)いてきたのです。

 生まれる3日前、鉄道員だった父が病気で亡くなりました。母カメさんは、父の代わりに国鉄に勤めながら新畑さんら子ども4人を育ててくれました。

 被爆当時、2人の兄は家を出て兵役に就いていました。13歳だった新畑さんは「あの日」、学校を休み、母の代わりに広島市昭和町(現中区)の町内会の勤労奉仕(ほうし)に出ていました。鶴見(つるみ)町(現中区、爆心地から約1・5キロ)で、建物疎開で崩(くず)した家の瓦(かわら)をはがして下ろしていた時です。突然(とつぜん)ピカーッと光りました。「兵隊さんが建物を壊(こわ)すのにダイナマイトを使って変な爆発をしたんかと思った」

 気付くと周囲は真っ暗。どこかに逃(に)げようと、手探りで「丸太ん棒か何か分からんもの」を越(こ)えながらたどり着いた先が、比治山橋の西詰(づ)めでした。そこで、5歳上の姉輝子(てるこ)さんとばったり再会。安心しました。

 2人で、広島駅の東にある国鉄の操車場にいるはずの母を捜(さが)しに急ぎました。電線や路面電車のケーブルが道路に落ちて燃えています。比治山橋から見た京橋川には、芋(いも)を洗うように人があふれていました。

 その頃(ころ)から、やけどで右耳の後ろから首筋、右肩にかけてぴりぴりと痛みを感じ始めました。

 客車の中にいて無事だった母に会え、3人で歩いて向かったのは、瀬野(せの)(現安芸区)にあった父の実家。道中、矢賀(現東区)あたりの救護所で、出血していた左ひじに刺(さ)さっていたガラスを抜き、3、4針縫(ぬ)ってもらいました。

 瀬野に着いたのは翌朝3時か4時ごろ。しかし、既(すで)に叔母(おば)2人が家族で避難(ひなん)してきていて断られました。仕方なく、呉市に住む母方の伯父(おじ)宅へ行きました。

 伯父宅では、髪(かみ)が抜け、鼻血が止まらない急性障害とやけどに苦しみました。うじが肉の中に入り込んで気持ち悪かったのを覚えています。

 伯父宅に1、2カ月いたでしょうか。皮肉を言われるなどで居づらくなり、原村(現東広島市)にあった母の実家に移りました。ここも1、2カ月で出て、親戚(しんせき)を頼って船越(現安芸区)にあった社宅に入りました。

 この頃、祖母に「人骨がやけどにいい」と聞き、父の墓へ行き、骨つぼから父の骨を3、4個もらい、粉にして貼(は)りました。肌が和らいだ気がしましたが、1年以上治らず家にいるうち、結局学校に行かないままになりました。

 1947年12月、母が車両事故で亡くなり、その3カ月後には姉も病死。長兄忠義さんのつてで、48年10月から帝国人造絹絲(けんし)(現帝人)に入社し、三原工場で働き始めました。

 戦時中、戦争が激化するにつれ勉強ができなくなっていました。「学校のグラウンドに防空壕(ごう)を造り、空き地にサツマイモを作った。後は、わら人形を竹やりで突(つ)く練習ばっかりしていた」。それを補おうと新聞で毎日勉強しました。分からない漢字は、前後から予測しながら読む日々でした。

 不自由な左手は、入社時の健康診断(しんだん)では何とか隠(かく)し、工場では、作業に合わせて道具を改良しながら仕事をしていました。

 「核兵器がなくなっても戦争したら同じ。戦争をなくさないといけない」と指摘(してき)します。「欲を出さず、今ある物を大切にして暮らすべきだ」と訴(うった)えます。(二井理江)

私たち10代の感想

生きにくい時代を実感

 新畑さんが一番苦労したのは、原爆で家が焼け、住む所がないことでした。親戚(しんせき)を頼っても、長くても2カ月しか泊(と)めてもらえず、転々としないといけないなんて、今では考えられません。原爆投下後の広島が、焼けて何も残っていない、生きにくい時代だったとあらためて分かりました。(中2フィリックス・ウォルシュ)

つらい「宿命」ない世に

 原爆によって、不自由になった左手。この手が原因で仕事に支障が出て、職場の人に嫌(いや)みを言われたりもしていました。しかし「これが自分の宿命」と語る新畑さん。原爆のせいにしない姿に、とても驚(おどろ)きました。宿命だから、と諦(あきら)めざるを得(え)ないような戦争は、もう二度としてほしくないです。(中3溝上藍)

活動 若者が継がないと

 新畑さんは私たち若者が被爆者の活動を継いでほしいと言っていました。被爆者が高齢化(こうれいか)し、私たちが継(つ)がなくてはいけない日が迫(せま)っています。核兵器廃絶を願う多くの人が携(たずさ)わってきた活動を継ぐには、未熟(みじゅく)かもしれませんが、安心して託(たく)してもらえるよう頑張(がんば)っていきたいです。(高3岡田春海)

(2016年9月19日朝刊掲載)

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