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連載・特集

緑地帯 川端康成とヒロシマ 森本穫 <2>

 中国への侵略に始まる戦争を、初め、川端康成はいわば傍観していた。しかし太平洋戦争が始まり、戦争が激しくなると、憂慮は次第に深まった。

 1942年の12月、開戦1年を機に、戦死した将兵たちの遺稿集を読んで感想を書いてほしいと東京新聞から依頼された川端は、「英霊の遺文」と題する一文を書いた。そこには、戦死者や妻たちの純粋さに対する感動がつづられている。

 翌年12月にも同じ依頼をされた川端の文章には、悲痛さが加わる。さらに翌年の44年末になると、銃後を守る妻や母たちに、川端の深い悲しみと共感が寄せられる。

 戦況は傾き、本土への空襲が本格化しつつあった。日本の国土と国民はどうなっていくのか。川端の悲嘆は極点へと向かう。

 敗戦の年の4月、川端は海軍報道班員として鹿児島県の鹿屋航空基地に派遣された。そこに1カ月間滞在し、特攻機で出撃してゆく学徒たちを無言で見送った。

 8月6日と9日の原子爆弾による惨害をどう受け止めたのか、日記は残っていない。

 終戦の詔勅のラジオを、川端一家は正座して聴いた。その翌々日、鎌倉の作家仲間であった島木健作が結核で死んだ。その葬儀で川端は追悼文を読み、その中で「山里にでも厭離(おんり)したい」と述べている。敗戦による痛恨の思いを吐露した言葉だ。

 戦争が進むにつれて、川端の悲しみは深まり、原爆の衝撃と敗戦によって極まったのであろう。(川端康成学会特任理事=兵庫県姫路市)

(2016年9月22日朝刊掲載)

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