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連載・特集

緑地帯 川端康成とヒロシマ 森本穫 <3>

 敗戦直後に死んだ島木健作の追悼文で、川端康成は次のように述べた。「私はもう死んだ者として、あわれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書こうとは思わない」。有名な古典回帰宣言である。

 川端は、太平洋戦争の半ばごろから源氏物語を本格的に読み始めた。源氏物語の底を流れる「日本古来の悲しみ」と、戦争によって日本国民の味わい尽くした「悲しみ」が重なって、古典回帰の宣言になった。それと平和への希求とが表裏一体となって、戦後の川端康成をつらぬく基本軸となる。

 1948年、日本ペンクラブの会長に就任した川端は、まず、国際ペンクラブへの復帰をはかった。戦争を起こした国として世界で孤立していた日本だが、復帰の要請は承認された。翌49年、イタリア・ベネチアで開催された国際ペンクラブに参加しようと試みたが、日本は占領下にあったため為替上の問題が生じ、出国できなかった。やむなく川端は、連帯と平和を求めるメッセージだけを送る。50年にようやく、代表2名を送ることができた。

 この行動と前後して起こしたのが、被爆地ヒロシマで日本ペンクラブの会を開く試みであった。川端は、広島と長崎を、日本の敗戦と平和の象徴と考えていたのである。その仲介役を果たしたのが、現安芸高田市出身の作家・編集者である田辺耕一郎だった。

 田辺は川端より4歳年下。岩崎清一郎氏の調査によると、若くして上京し、プロレタリア文学運動に参加した。(川端康成学会特任理事=兵庫県姫路市)

(2016年9月23日朝刊掲載)

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