×

連載・特集

緑地帯 川端康成とヒロシマ 森本穫 <4>

 川端康成と、広島県出身の田辺耕一郎の交流は早くからあった。田辺は1926年、川端の最初の創作集「感情装飾」の出版記念会に出席している。雑誌「若草」の編集長時代には、川端にたびたび執筆依頼した。

 45年8月6日の直後、広島が未曽有の災害に遭ったという報に接した田辺は東京を発ち、廃虚と化した広島市を目の当たりにして、ぼうぜんとした。さらにそれが原子爆弾であったと知って、激しい憤りに駆られた。

 翌46年、広島に帰っていた田辺は川端の推薦で、日本ペンクラブ会員となった。49年、当時の浜井信三広島市長と会い、日本ペンクラブの会の広島開催を提案した。浜井市長は賛成し、それにはまず、クラブの代表たちに広島を見てもらおうと、市が招請することにした。

 同年11月26日午後、会長の川端、幹事長の豊島与志雄、幹事の小松清、書記長の水島治男、田辺の5人が広島駅頭に到着する。

 早速、市内の惨禍の跡を視察した一行は、翌27日には市議会議事堂で、市長や市のさまざまな代表約25人と座談会「平和都市建設への構想」を開いた。

 そこでは、広島は被爆の廃虚から、人類の理想・平和の発信地を目指して立ち上がっている、と市側から説明があった。川端は、翌年、英国で開かれる国際ペンクラブの大会に、ヒロシマの惨禍と、平和都市として再起しつつある姿の両方を訴えたいと述べ、また、日本ペンクラブの会の広島開催を実現したいと言明した。(川端康成学会特任理事=兵庫県姫路市)

(2016年9月24日朝刊掲載)

年別アーカイブ