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連載・特集

緑地帯 川端康成とヒロシマ 森本穫 <5>

 1949年11月末、広島での3日間の行程を終えて尾道に立ち寄ったところで、川端康成は養女政子の実母が危篤という電報を受け取った。そこで急きょ、実母の住む大阪に向かったのだが、その前後を描いた私小説「天授の子」には、広島行の意義が繰り返し語られている。

 「原子爆弾の最初の犠牲となった広島が、平和都市として再建されようとする。日本の平和都市はまた世界の平和都市でなければならない。現に広島市長は世界に呼びかけ、各国から同情や賛意が寄せられている。」

 「日本ペンクラブは国際的に承認され、外国のペンクラブと連絡がある。それで私たちに原子爆弾の惨禍のあとを見せ、平和都市の計画を知らせ、折があれば海外の文学者に広島を伝えてほしいというので、私たちは招かれたわけだった。」

 「私たちは広島で感動した。来てよかったと言い合った。海外への連絡はとにかく、一人の人間として、一人の作家として、私は鞭(むち)をあてられた。」

 川端はまた、「私は広島で起死回生の思いをした」「人類の惨禍が私を鼓舞したのだ」とも述べている。この感動が川端にいっそう力強く、世界平和への道を歩ませたのである。

 帰京した一行は、12月の日本ペンクラブ月例会でヒロシマの報告をするとともに、翌50年度の前半期例会の広島開催を提案、満場一致で可決された。広島・長崎訪問の準備はこうして着々と進められていった。(川端康成学会特任理事=兵庫県姫路市)

(2016年9月27日朝刊掲載)

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