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ヒロシマ8・6 各地で慰霊祭 優しかった父の笑顔だけが形見/生きている者の役割増している

 ◆原爆死没者慰霊行事(平和記念公園)
 原爆供養塔の前で広島戦災供養会が主催し、被爆者や遺族たち約500人が参列した。遺族代表の三宅智香子さん(56)=安佐南区=と弟の秋本誠一さん(50)=東区=は、親のきょうだい2人を原爆で亡くした。「被爆死した2人には会ったことはない。その苦しみは想像しかできないが、平和を祈り続けたい」と話した。

 ◆広島二中原爆死没者慰霊祭(平和記念公園)
 旧制広島二中(現観音高)の生徒遺族や卒業生約300人が参列した。建物疎開中に亡くなった生徒たちをしのび、黙とうした。安佐南区の宮川龍司さん(87)は1年生だった弟演男さんを亡くした。「毎年、弟に『自分が生き残ってごめんね』と語り掛けている。弟と一緒に平和な時代を経験したかった」と唇をかんだ。

 ◆県職員原爆犠牲者追悼(中区加古町)
 県職員や遺族たち約200人が、旧県庁跡の慰霊碑に花を手向けた。毎年訪れる岩本芳政さん(74)=安佐北区=の父巧さん=当時(42)=は、通勤途中に被爆したとみられ、遺骨は見つかっていない。岩本さんは「人生の岐路では『父ならどう助言しただろう』と考えた。家族や日常を奪う戦争はあってはならない」と力説した。

 ◆広島女子高等師範学校付属山中高等女学校・県立第二高等女学校合同原爆慰霊祭(中区国泰寺町)
 慰霊碑のある荒神堂境内に、当時の生徒や遺族約100人が集まった。山中高女2年だった山内幹子さん(85)=中区=は、建物疎開中に被爆死した同級生をしのび、黙とうをささげた。「江田島の実家から市内への船の出航が遅れたため難を逃れた。数少ない生き残った者として、命ある限り語り継ぎたい」と誓った。

 ◆広島赤十字・原爆病院原爆殉職職員ならびに戦没職員慰霊式(中区千田町)
 遺族や元職員、職員たち約110人が参列し、慰霊碑前で黙とうした。初めて参列した加藤法恵さん(61)=安佐南区=の叔母、一井(とつい)トシ子さんは、日赤の救護班員として広島第一陸軍病院(現中区基町)で被爆死した。「知人が叔母の消息を調べてくれ、ここの碑に名前が刻まれていると分かった」と涙を浮かべた。

 ◆広島郵便局原爆殉職者慰霊祭(南区比治山町)
 慰霊碑のある多聞院に、遺族や元職員たち約100人が参列。読経に続き、参列者全員が焼香し、犠牲者を悼んだ。勤務中だった父安井明治さん=当時(42)=を亡くした沼田妙子さん(88)=中区=は「母と2人で父を捜したが、髪の毛一本見つけることができなかった。優しかった父の笑顔だけが形見」と声を震わせた。

 ◆電気通信関係原爆死没者慰霊式(中区基町)
 遺族やNTT西日本の社員約80人が慰霊碑前で黙とうした。畑野一雄さん(87)=東広島市=の父好雄さん=当時(44)=は、職場があった広島市内で被爆し、18日後、西条町(現東広島市)の自宅で死亡した。畑野さんは「父は割れたガラスが体に刺さって苦しそうだったが、子ども6人のために生き延びようとしていた」。

 ◆国土交通省(旧内務省)原爆殉職者慰霊式(平和記念公園)
 原爆ドームそばの慰霊碑前で、遺族や職員計約90人が犠牲者を追悼した。岡山市南区の高柳綾男さん(77)の父で職員だった登さん=当時(55)=は、建物疎開の作業中に被爆死した。高柳さんは「両親のいる友達を見て、おやじが生きていたらと思うことが子どもの頃にあった。ほとんど甘えられなかった」と振り返った。

 ◆日本損害保険協会中国支部「友愛の碑」慰霊祭(中区中島町)
 損害保険会社の社員や関係者約400人が参加した。平和大通り南側の緑地帯にある碑に献花し、犠牲者をしのんだ。元社員の下桶英夫さん(79)=佐伯区=は、疎開先の深川村(現安佐北区)で避難した被爆者を救護した。「若い人は原爆の恐ろしさを知らない。それでも大勢集まり、平和への思いを感じる」と目を細めた。

 ◆広島市立広島商業高原爆死没者慰霊祭(平和記念公園)
 市立造船工業学校の生徒遺族や、流れをくむ市立広島商業高の生徒約130人が参列し慰霊碑に献花した。遺族代表の若宮洋子さん(81)=南区=は、建物疎開に動員された兄を原爆で失った。「兄は上着と弁当箱しか残さなかった。強い日差しの中で苦しんだ兄のような目には、誰も遭わないでほしい」と声を振り絞った。

 ◆広島高等師範学校付属中原爆死没者・戦没者慰霊追悼の集い(南区翠)
 慰霊碑を前に、遺族や卒業生、広島大付属中高の生徒計約250人が、犠牲者の冥福を祈った。校舎近くで被爆した植野克彦さん(83)=高知市=は「同級生や父親を亡くし、生き残ったことに負い目もあった」と振り返る。憲法改正に向けた政治の動きに危機感を募らせ「戦争の愚かさを語り継ぐのが私たちの責務」と強調した。

 ◆県動員学徒等犠牲者の会原爆追悼式(平和記念公園)
 原爆ドーム近くの慰霊塔前で遺族たち約300人が祈りをささげた。安芸区の伊東次男さん(81)は、旧制広島一中(現国泰寺高)の1年生だった兄宏さんを原爆で失った。2001年の米中枢同時テロでは、長男和重さんを亡くした。「兄や長男のような犠牲者を出す原爆、戦争は二度と繰り返してはならない」と力を込めた。

 ◆嵐の中の母子像供養式(中区中島町)
 広島市地域女性団体連絡協議会の約60人が集まった。幼子を抱いて嵐の中を進む母親をモチーフにした像に、花と折り鶴を手向けた後、「原爆を許すまじ」を合唱した。東練兵場(現東区)で被爆し、焦土を逃げ惑った津賀静枝さん(84)=中区=は「必死に子どもを守る母親を幾人も見た。原爆のむごさを伝えたい」と語った。

 ◆県立広島第一高等女学校原爆犠牲者追悼式(中区小町)
 旧制高等女学校の流れをくむ皆実高の関係者や遺族約300人が犠牲者を悼んだ。当時1年生の梶山雅子さん(83)=呉市=は、被爆死した親友の写真を手に参列。建物疎開に動員された同級生の多くが亡くなったが、自身は体調不良で作業を休んでいた。「楽しそうな声が今も耳に残る。今年も来たよ」と旧友に呼び掛けた。

 ◆広島市女職員生徒原爆死没者慰霊式(中区中島町)
 広島市立第一高等女学校(現舟入高)の卒業生や遺族たち約350人が参列し、犠牲になった生徒と教職員の冥福を祈った。舟入高2年花守諒太さん(17)が、学徒動員で建物疎開に当たっていた娘を失った母親の手記を朗読。姉が犠牲になった藤森道子さん(76)=東区=は「しっかり者で賢かったと母から聞いた」としのんだ。

 ◆旧制広島市立中学校原爆死没職員生徒慰霊祭(中区小網町)
 天満川沿いの慰霊碑前に、遺族や基町高の生徒たち約300人が参列した。同校合唱部が旧制市立中の校歌を歌う中、花を手向けた。安佐南区の岡本剛毅さん(80)は、建物疎開に動員された兄寛司さん=当時(14)=を亡くした。「どんなに苦しんだか、ここに来るたびに思いを巡らす。安らかに眠ってほしい」と悼んだ。

 ◆広島大原爆死没者追悼式(中区東千田町)
 遺族や大学関係者約100人が集い、慰霊碑に花と水をささげた。廿日市市の景山祐之さん(72)は広島文理科大の職員だった父敏晴さん=当時(42)=の行方を家族で捜し歩いた。「原村(現廿日市市)で再会した父は背中に大やけどを負い、8月20日に亡くなった。言葉に表せない苦しみを味わったのだろう」と思いをはせた。

 ◆県被団協(坪井直理事長)原爆死没者追悼慰霊式典(中区基町)
 会員や遺族約150人が、失った家族や仲間を悼んだ。学徒動員先の工場で被爆した河野千鶴枝さん(86)=安芸太田町=は、避難先から帰宅中、やけどを負って息絶えそうな女学生の姿や、火葬した骨が並ぶ川辺の光景を目にした。「地獄でもあれほどのことはない。亡くなる人が増え、生きている者の役割が増している」

 ◆原爆犠牲新聞労働者「不戦の碑」碑前祭(中区加古町)
 新聞、通信8社の社員や遺族、労組関係者約100人が集まった。被爆死した社員の死を悼み、「戦争のための報道はしない」と碑前に誓った。中区の法安襄さん(80)の父雅次さん=当時(48)=は被爆時、中国新聞社の主筆だった。「家族を残して被爆死した父は無念だったはず。父の供養を続けたい」と目を閉じた。

 ◆国鉄原爆死没者慰霊式(中区東白島町)
 遺族やJR西日本の社員約100人が参列。慰霊碑に黙とうをささげた。安佐北区の佐々木美津子さん(71)は、国鉄職員で宿舎にいた兄吉田貞丸さん=当時(18)=を失った。写真でしか兄を知らない。「母も『息子が生きていたら』が口癖だった。兄のことは写真と一緒に、子や孫に語り継ぎたい」と誓いを新たにしていた。

(2016年8月7日朝刊掲載)

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