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連載・特集

緑地帯 川端康成とヒロシマ 森本穫 <7>

 日本ペンクラブ「広島の会」が開かれた同じ年の1950年8月には、国際ペンクラブの大会が英エディンバラで開催された。川端康成は、日本ペンクラブの平和希求の信念と、広島・長崎の惨禍、平和への希望を世界に伝えたいと、代表2人を送り出した。

 大会のテーマは「演劇」だったので、川端は学生時代からの盟友である演劇人・北村喜八と、英語に堪能で国際情勢に明るい阿部知二を選んで派遣した。

 この時、田辺耕一郎を通じて広島市の浜井信三市長から川端に託されたのが、広島の被爆の写真資料だった。これを阿部知二が携え、エディンバラでスピーチした際に披露した。

 この写真に強く衝撃を受けたのが米国人作家アイラ・モリスであった。モリスはその場で阿部に話し掛け、彼らは友人になった。

 原爆投下国の国民としての痛みと良心から、使命感に駆られたモリスは55年、妻エディタとともに広島を訪問する。そうして、私財を投じ、被爆者の救済に役立ちたいと申し出た。こうして57年5月2日、宇品(広島市南区)の古い旅館を改装した被爆者のレクリエーション施設「広島憩いの家」が開所した。運営管理には、田辺耕一郎夫妻が住み込みで当たることになった。

 阿部の報告以来、成り行きに強い関心を寄せていた川端は、発起人の筆頭に名を連ねた。以後も毎年のように、運営資金集めの色紙書画即売展に率先して揮毫(きごう)を寄せ、友人たちを誘うなど、協力を惜しまなかった。(川端康成学会特任理事=兵庫県姫路市)

(2016年9月29日朝刊掲載)

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