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連載・特集

緑地帯 川端康成とヒロシマ 森本穫 <8>

 川端康成の戦後作品には、戦争の傷が深く刻まれている。「住吉」連作や「千羽鶴」「山の音」に流れる深い喪失感は、戦争に敗れた日本の悲しみそのままである。

 核兵器や次の戦争の危険についても、川端は作品中で警告し続けた。「虹いくたび」(1950年)のヒロイン3姉妹の父・水原常男は、建築家として「広島、長崎の惨害も見て来ました」と語り、また「原子爆弾、水素爆弾の破壊の下にある、建築家の運命」を考え続けている。

 「舞姫」(50~51年)のヒロイン波子の夫・矢木元男は「戦争恐怖症」の人物であり、長崎原爆の破壊力について語る。朝鮮戦争の戦況と、米大統領の「原子爆弾の使用を考慮中」というコメントも紹介される。「東京の人」(54~55年)でも、太平洋ビキニ環礁の水爆実験や放射能の恐ろしさに言及し、読者に警告している。

 川端は、62年には「世界平和アピール七人委員会」の一人に委嘱され、平和と核兵器廃絶を訴える声明を発し続けた。

 「広島憩いの家」は、田辺耕一郎が亡くなった翌年の92年まで、35年の歩みを刻む。66年にはフランスの哲学者サルトル、ボーボワール夫妻も訪れた。

 72年3月、田辺は鎌倉に川端を訪ねた。川端はしきりに被爆者たちの様子を質問し、「憩いの家は世界の良心のシンボルだから、灯をともし続けてください」と励ました。自裁の、わずか1カ月前のことだった。

 川端は生涯、ヒロシマを忘れることはなかったのである。(川端康成学会特任理事=兵庫県姫路市)=おわり

(2016年9月30日朝刊掲載)

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