×

ニュース

セツコ・サーローさん 外交官に被爆体験語る

 27日、国連の核問題の会合に参加した広島の被爆者のセツコ・サーローさん(76)=カナダ・トロント市在住=は、被爆者を代表して国連第一委員会で、各国の外交官を前に被爆体験を語った。今も続く放射線による後障害の影響に触れながら、「人類と核兵器は共存できない」と強調。包括的核実験禁止条約(CTBT)の早期実現など「具体的な核軍縮に向け、私たちは今すぐ行動を取らなければならない」とアピールした。

 サーローさんら被爆者4人は、現在、国際交流非政府組織(NGO)「ピースボート」主催の「ヒバクシャ地球一周 証言の航海」に参加中で、国連での会合に出席するため、一時船を離れた。

(2008年10月29日朝刊掲載)

国連総会第一委員会でのセツコ・サーローさんの証言

 第一委員会の皆様、広島と長崎の被爆者を代表して、私たちのメッセージと請願をお届けする機会をいただいたことに感謝いたします。

 1945年8月6日、私の愛する広島市は強烈な閃光(せんこう)とごう音と共に、きのこ雲の下で瞬時に壊滅しました。屋内にいた人は倒れた建物の下敷きになりました。屋外にいた人は火傷を負い、真っ黒に焦げ、誰かも分からないほどに腫れ上がりました。私の級友たちを含め、街の中心部にいた人は高熱により蒸発してしまいました。

 当時13歳だった私は軍に動員されており、爆心地から1.8キロ離れたところで被爆しました。私は空中に投げ出され、瓦礫(がれき)の下敷きになり、幸運にも誰かに助け出されて、燃え上がる建物から脱出することができました。午前に起こった出来事ですが、外に出たときは黄昏(たそがれ)のような暗さでした。ちりや煙が広島中の大気を覆い、太陽を遮っていたのです。

 暗い中でいくつもの死体が重なり、足を引きづる人間がゆっくりと押し寄せて来ました。体の一部分を失ったり骨から皮膚や肉が垂れ下がっている人、自分の目玉を手に握る人、裂けた腹部から腸が飛び出している人…。

 数日後に不気味な放射線による影響が見られるようになりました。紫色の斑点が体中に出たり、髪の毛が抜けたり、多くの人はだんだんと死んでいきました。私の知っていた広島は無くなり、残ったのは死と荒廃でした。1945年末までに14万人が亡くなりました。恐ろしいことに63年後の今も、多くの人が死んでいるのです。現在、被爆者の平均年齢は75歳です。

 生き残ったことの意味を求め続けてきた被爆者は、他のどの人々にも私たちと同じ経験が繰り返されることがないようにと全力を注いできました。63年間にわたり、核兵器の危険性について世界に警告を与えてきました。人類と核兵器は共存できないのであり、安全保障と平和への唯一の道は、核兵器の全面廃棄によってもたらされると私たちは確信しています。

 ジュネーブ軍縮会議(CD)が10年間も動きがないまま、行き詰まっていることに危機感を覚えます。私たちは、核保有国が核拡散防止条約(NPT)第6条により定められた軍縮義務を果たしていないことに、また包括的核実験禁止条約(CTBT)がいまだに発効に至っていないことに幻滅しています。核軍縮に向けて、以上のことや、その他の具体的な措置が緊急に取られることを強く求めます。20年後や50年後ではなく、今日、行動を起こさなくてはいけないのです。

 世界は互いにつながっています。地球上の気候変動、経済危機、深刻な貧困や減少する天然資源は、私たちすべてに影響を与えています。人類が知る中で最も不道徳で破壊的な皆殺し兵器である核兵器の維持や開発のために、私たちの金や知能を浪費するのはやめなければなりません。

 ラッセル・アインシュタイン宣言は次のように述べています。「あなたがたの人間性を心にとどめ、そしてその他のことを忘れよ」

年別アーカイブ