×

連載・特集

緑地帯 父のこと 四国光 <1>

 この秋、父・四国五郎の展覧会が開かれる。2014年に父が亡くなってから、広島で5度目の展覧会となる(10月5~11日、広島市中区の県民文化センター)。

 広島の街を描いた連作を展示した第1回、総合追悼展となった第2回、シベリア抑留の記録に焦点を当てた第3回、生まれ故郷三原市での第4回。そして今回は「四國五郎の原爆~弟の被爆死」。自らは被爆していない原爆と、父がどう向き合ったか。未曽有の惨劇を、どう可視化して伝えようとしたのか。その試行錯誤を見ていただければと思う。

 20歳の時、父は旧満州(中国東北部)で関東軍の兵士となった。「アンパン」と呼ばれる戦車用の地雷を抱え、ソ連の戦車の下腹に飛び込む自爆攻撃が任務だった。陸の「特攻」であった。明日か明後日は自分の番という時になって突如、敗戦の報が伝わり、戦争が終わった。

 帰国できるかと思いきや、今度はシベリアに3年強の抑留。極寒と飢えと強制労働で血を吐いて倒れ、今度こそ命は尽きたと観念したが、何とか生き抜いて1948年11月に帰国。しかし、自宅のある広島は原爆で壊滅していた。「もし生きて帰ったら一緒に絵を描こう」と誓い合った、3歳下の弟直登は被爆死していた。

 父はこの時、東京で絵描きになるという子どもの頃からの夢を断念し、広島に残って「死者に代わって平和のために絵を描く」と決心した。(しこく・ひかる 四国五郎長男=大阪府吹田市)

(2016年10月1日朝刊掲載)

年別アーカイブ