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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 木村広子さん―原因分からぬ不安 今も

体がしんどい日続いた。稲の葉は茶色に

木村広子(きむら・ひろこ)さん(80)=広島市安佐南区

 広島に原爆が落とされた時、戸坂国民学校(現戸坂小、広島市東区)4年生で校庭にいた木村(旧姓下中)広子さん(80)は、その後約1カ月間、座っても寝(ね)ても体のしんどい日が続きました。「原因が分からず不安だった」。今は放射能の影響(えいきょう)だったのでは、と疑っています。自然に回復しましたが、原発事故で汚染(おせん)された福島の様子を見るとつらく、「核と人間は共存できない」と力を込(こ)めます。

 9歳だった1945年8月6日の朝、軍馬に与える草を刈(か)る奉仕(ほうし)活動のため校庭に集まっていました。朝礼中、突然(とつぜん)「B29じゃ」と叫(さけ)ぶ上級生の声が耳に飛び込んできました。爆撃機が背後の山を越(こ)えたと思った瞬間(しゅんかん)、ピカッ。経験したことのないまばゆい光に包まれ、爆音が響(ひび)きました。とっさにみんなで裏山の防空壕(ごう)へ駆(か)け込みました。

 その場で解散となり帰宅しようとしたところ、草刈り鎌(がま)が見当たりません。「おばあさんに怒(おこ)られる」。心配しながら、爆心地から約5・1キロ離(はな)れた家に戻(もど)りました。窓ガラスや障子が壊(こわ)れ、蚊帳(かや)は吹き飛んでいました。祖母タツさんには、無事に帰ったので安心されました。

 戸坂村には、市中心部から大勢の被爆者が逃(に)げて来ました。翌日から自宅で兵隊3人を受け入れました。1人は背中のやけどがひどく、わいてくるうじ虫を祖母が取っていました。身内に連れられて帰ったのか亡くなったのか、盆(ぼん)ごろには3人ともいなくなりました。母栄(さかよ)さんも毎日、火葬(かそう)を手伝いに出掛け、村には死体を焼く臭(にお)いが満ちていました。

 体がだるくなった木村さん。近所の人に「栄養失調じゃ」と言われましたが、症状(しょうじょう)が出たのは、きょうだい5人の中で自分だけ。「家で作った米をちゃんと食べていたので納得いかなかった」。田の稲(いね)の葉が茶色になったのも不思議でした。秋に実るか気掛(が)かりでしたが、緑色に戻(もど)り収穫(しゅうかく)できました。

 ウサギの飼育当番で登校した9日、陸軍病院の分院になっていた学校に運び込まれる同じ年頃の少年を見かけました。真っ黒にやけどし、「兵隊さん、水ちょうだい」と求めていましたが何もできませんでした。

 体調が回復した後は家の農作業を手伝いました。前年の秋に父実男(じつお)さんが病死していたからです。5、6年になると月1回、田畑の肥料にするため、母と市内へ肥(こえ)をもらいに通いました。

 バラックや闇(やみ)市…。被爆後の広島を初めて目にしました。「みんな必死に生きている」。苦労は自分だけでないと、農作業のつらさをこらえました。

 母に言われて高校は諦(あきら)めました。中学卒業後に就職し、月給約3千円のうち定期券代500円以外は全て家に入れました。「妹2人を高校まで卒業させるのは、父代わりの自分の務め」との思いからでした。被爆者健康手帳は、母が子ども5人分まとめて「救護被爆」として申請(しんせい)してくれ、60年に受け取りました。

 その年に結婚した明爾(めいじ)さん(82)も被爆者です。3人の子に恵まれましたが、長男真爾(しんじ)さんが2010年、心筋梗塞(こうそく)のため46歳で亡くなった時は「私たちが被爆しているからでは」と悩(なや)みました。

 被爆証言するのは初めてです。今年2月、同じ戸坂村にいて被爆した医師、肥田舜太郎さんの新聞記事を読んだのがきっかけです。「あの時」を知る人が99歳になった今も放射能の恐(おそ)ろしさを講演で伝えている―。勇気づけられました。「被爆の不安は後世まで続く。あんなつらい戦争を繰り返してはいけない」。自分の経験を知ってほしいと語り掛けます。(山本祐司)

私たち10代の感想

つらい記憶 伝えていく

 つらい記憶はなかなか忘れられません。今でも夜景のライトアップを見ると、戦時中のサーチライトを思い出す木村さん。私も飼っていた16歳の柴(しば)犬が3年前に死んでから、ペットが亡くなるテレビ番組を見ると、寂(さび)しくなります。今後も、71年間つらい思いをしている人の気持ちをしっかり受け止めて伝えていきたいです。(中2川岸言織)

想像超えた核の破壊力

 木村さんが当時住んでいた戸坂村は、爆心地から5キロ以上離れ、山に囲まれています。それでも自宅のふすまや障子が原爆の爆風で吹き飛んだと聞き、破壊(はかい)力のすさまじさを再認識しました。原爆資料館の「リトルボーイ」の模型は小さいのに、実際は遠くまで爆風は襲(おそ)いました。核兵器の威力(いりょく)は私の想像を超(こ)えています。(高3岡田春海)

苦難耐えた行動力感銘

 大やけどをした男の子が兵隊に水を求めるのを見て、木村さんは「かわいそう」と思ったそうです。多くの人が目の前で苦しむ光景は、小学4年生には耐(た)え難(がた)かったと思います。死体を焼く臭いも子どもには強烈(きょうれつ)だったはず。不安にも負けず農作業を手伝い、家族を支えた行動力に感銘(かんめい)を受けました。(高3森本芽依)

(2016年10月3日朝刊掲載)

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