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社説・コラム

『論』 辺野古問題の本質 県民は「移設」と呼ばない

■論説主幹・佐田尾信作

 往年の名歌手田端義夫(バタヤン)も歌った沖縄の島唄「二見情話」は聞いたことがある。だが、その旋律を奏でる道が、ゆかりの地にあるとは知らなかった。アスファルトに刻んだ凸凹に仕掛けがある。先月、沖縄県名護市の現地を車でトロトロ走りながら耳を澄ますと、そう聞こえたから不思議だ。折しも米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古沖への「移設」を巡る判決の翌日だった。

 その二見の集落は大浦湾の湾奥にあり、辺野古は岬に位置する。米軍キャンプ・シュワブを対岸に望む浜に立ち、V字形滑走路を想像した。この湾内で日米両政府が画策するのは、関西空港1期工事の規模にも相当する耐用年数200年の洋上基地である。「代替施設」というお役所言葉の印象とは程遠いことを実感した。

 公有水面を埋め立てて建設する滑走路だけではない。強襲揚陸艦が接岸できるバースも計画されているという。ゆえに県紙の沖縄タイムスや琉球新報は「移設」ではなく「新基地」と書く。翁長雄志(おなが・たけし)知事を支持し、普天間の県内移設にノーを突き付けてきた「オール沖縄」の陣営も同じである。

 この70年を顧みると沖縄の米軍基地は米国の施政権下、強制収用を含む圧力で県土から県民を立ち退かせて拡張してきた。1950年代には軍用地料一括払い反対、新規接収反対などを旗印にする「島ぐるみ闘争」が起きた。

 おととし訪ねた伊江島は6割の土地を軍用地に取られ、米兵の手で家や畑が焼き打ちにあった。農民の苦難と抵抗の証しは、投下演習が繰り返された「核模擬爆弾」とともに、今は島内の反戦平和資料館で公開されている。翁長知事が「沖縄は一度たりとも自ら土地を提供したことはない」と繰り返し述べているのは、この戦後史を踏まえてのことに違いない。

 基地の整理・縮小と跡地開発は沖縄県の最重要政策である。高層マンションや大型店などが広い道路沿いに立ち並ぶ那覇新都心は米軍住宅跡地を再開発し、返還後の経済効果は返還前の32倍、1600億円に達している。那覇市を含む中南部都市圏は広島市並みの117万人のエリアに発展した。

 36年前、路線バスを乗り継ぎ民宿を泊まり歩いて沖縄を旅した身には、隔世の感がある。今や県民総所得に占める基地関連収入の割合は5%ほどにすぎず、「オール沖縄」に加わる地元のホテルチェーン経営者は「観光業は平和産業です」と公言してはばからない。沖縄経済の「脱・基地依存」の波が逆流することはあるまい。

 ところが、国は辺野古沖を埋め立て、国有地として新たに米軍に提供する。しかも司法がそれを追認した。「普天間の危険性の除去には辺野古沖の埋め立て以外にない」として、翁長知事が埋め立て承認の取り消し処分を撤回しないのは違法だと断じたのが、先日の福岡高裁那覇支部の判決だ。

 判決に対し翁長知事は「70年前の銃剣とブルドーザーで沖縄県に基地を造るのが、70年目にして新たな段階を迎えたと考えている」と述べた。新基地は造らせないという決意の中に、沖縄の基地問題の本質が明らかに変わったという意味合いを込めたのだろう。

 判決の6日後、米軍機ハリアーAV8Bが本島沖で墜落し、本紙も朝刊1面で伝えた。しかし、沖縄タイムスのベテラン女性記者からは「私の中では判決の衝撃が今も続いてます。戦闘機は何度も墜落していますが、こんな判決は聞いたことがないですから…」という電子メールを受け取った。

 それは静かな怒りに満ちていた。あなた方は米軍の事故や事件には反応しても事の本質は見えているのですか、という問いと受け止めることもできよう。おのれの不明を恥じるばかりである。

 くだんの「二見情話」は恋歌のようだが、モチーフは別にある。沖縄戦の敗残兵である作者が、受け入れてくれた二見の村民への感謝の念と、平和を願う心境を表したという。ゆかりの地の目と鼻の先に、情話とは程遠い鉄とコンクリートの異世界ができるとは、「みるく世(ゆ)(弥勒世)」にあってはどうしても信じることができない。

(2016年10月6日朝刊掲載)

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