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緑地帯 父のこと 四国光 <8>

 「言葉がふさわしければ言葉で。絵がふさわしければ絵で。二つを合わせた方がよい場合は統合して。とにかく、誰にでも分かりやすく伝えること。伝わらなければ表現ではない」

 父は「表現」について、明確な指針を持っていた。それは生涯、ぶれることがなかった。

 父が46歳で出した初の著作は「詩画集 母子像」。自分の絵と詩を合わせた表現だ。言論統制の時代に峠三吉と共作した「辻詩」も、詩と絵を統合したものだった。その後の「広島百橋」「ひろしまのスケッチ」などの著作も、絵と言葉を組み合わせている。

 NHKなどが呼び掛けた「市民が描いた原爆の絵」の募集のため、テレビ出演して描き方の実演をした時も、「絵で説明しにくい時は言葉で補って」と助言した。父にとって表現とは、自己表現である以上にコミュニケーション、メッセージを伝える手段だった。

 あの体験、この体験を伝えるために、自分は生き残った。あらゆる手法を駆使し、次世代に伝えることが自分の存在意義だ。そう考えていた。「これが私の表現だから見に来てくれ」ではなく、「そちらに行って分かるまで説明します。どうか分かってください」と歩み寄る表現。父の作品が年齢を問わず支持をいただいているとすれば、そんな姿勢ゆえだと思う。

 自己表現こそが芸術であるなら、四国五郎の表現は何と呼べばよいのだろう。私も今後、父の作品と向き合いながら、見つめてゆきたいと思う。(四国五郎長男=大阪府吹田市)=おわり

(2016年10月13日朝刊掲載)

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