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連載・特集

緑地帯 民喜と歩く 竹原陽子 <4>

 2014年夏、原民喜が松尾芭蕉の俳蹟(はいせき)を訪ねた足跡を追って旅をした。民喜は学生時代から正岡子規や与謝蕪村も愛読し、天が崩れ落ちるイメージは実感だといって、中国の故事にちなんで「杞憂(きゆう)亭」と号し、句作もしていた。民喜の研ぎ澄まされた文体は、若い頃から親しんだ俳句によって培われたといってよい。特に芭蕉は、「戦争中は芭蕉を読むことによつて、郷愁をみたされてゐた」と述懐するほど心の支えとしていた。

 私は1938年に民喜が旅した通りに、京都の落柿舎、伊賀上野を巡り、大津の幻住庵も訪れた。幻住庵は奥の細道の旅を終えた芭蕉が4カ月間滞在し「幻住庵記」を記した場所で、近津尾神社の境内に庵址(あんし)の碑が立ち、そばに庵(いおり)も再建されている。

 民喜の作品「旅空」では、雨の中、人家もまばらな寂れた道を行き、汗びっしょりになって幻住庵まで辿(たど)り着くさまが描かれる。私も、今は住宅地となっている静かな町を歩き、どうにか着くことができた。

 鳥居を潜って階段を上ると神殿があった。その向かいの堂に座り、民喜の文章を取り出して読んだ。瞬間、座の底が抜けた。自分が座っている所に民喜が腰かけていたのだった。民喜は、そこから庵址を見つめて芭蕉の人格と対面する場面を書いている。「ありうることであらうか、その人は生とも死ともわかたぬ存在を今この眼の前に保つてゐるのだ」。庵の雨戸は1枚、開かれていた。

 現世の向こう側に死後の世界を見つめ、その臨在を感じて生きた民喜の世界に触れる想(おも)いだった。(原民喜文学研究者=広島市)

(2016年10月19日朝刊掲載)

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