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連載・特集

緑地帯 民喜と歩く 竹原陽子 <6>

 2年前、原民喜のおいの原時彦さんに1冊の詩集を見せてもらった。民喜の自死からわずか4カ月後に細川書店から刊行された「原民喜詩集」。

 一目見て、これが原民喜だと思った。敗戦から6年という時に、最高級の和紙、鳥の子紙等を用い、扉に肖像写真と直筆原稿の写しを配し、目次はフランス詩集の伝統にのっとって末部に付されている。あとがきを民喜の生涯の友であった詩人長光太が記しており、遺稿を受けた光太が、限りない哀悼の想(おも)いを注いで仕上げた一冊に違いなかった。

 光太は民喜が中学時代から詩作をともにした親友で、戦後、民喜は光太を頼って上京し、光太夫妻の家に同居した。しかし間もなく、光太が北海道で再婚したため、以後2人は文通して支え合った。

 現在、光太から民喜宛ての書簡は広島市立中央図書館に151通が所蔵されている。一方、民喜から光太宛ての書簡は、全集には収録されていたものの長く所在不明だったが、昨年暮れに北海道立文学館で64通発見され、同館副理事長の平原一良氏によって「三田文学」春季号で明らかにされた。

 民喜は生前、主に短編小説を発表したが、本質的に詩人であった。そのことは、民喜からたびたび詩を送られていた光太が最もよく分かっていた。

 光太は書簡で、民喜に詩集を出すよう何度も勧めている。しかし、民喜は光太の詩集を出そうと奔走するばかりで、自身の詩集を出すことはなかった。そうして民喜の死後、涙の結晶のような詩集が生まれたのである。(原民喜文学研究者=広島市)

(2016年10月21日朝刊掲載)

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