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平和願い 61年ぶり再会 禎子さんと入院生活で交流 親子2組 折り鶴作る姿しのぶ

 2歳で被爆して12歳の時に白血病で亡くなり「原爆の子の像」(広島市中区)のモデルとなった佐々木禎子さんと入院生活を共にした2組の親子が30日、61年ぶりに再会した。引き寄せるきっかけになったのは、5月のオバマ米大統領の広島訪問。再会した親子は、今月25日に命日を迎えた禎子さんの死を悼み、平和を願った。(水川恭輔)

 医師の大本裕之さん(64)=福山市=と母喜美枝さん(87)=広島市安佐南区、会社員増谷淳さん(64)と母英子さん(90)=南区=の2組。1955年5月、2歳だった大本さんがポリオで広島赤十字病院(現中区)に入院すると、小児結核を患う同い年の増谷さんと同室となり、向かいの病室で禎子さんが闘病生活を送っていた。3家族は仲良くなったが、禎子さんは55年10月25日に生涯を閉じた。

 大本さんと増谷さんはその前後、退院した。ただ、住所を交換しなかったため会えないままになった。大本さん親子は、禎子さんや増谷さんと一緒に写った記念写真を大事にしていた。

 転機はことし5月27日。被爆地を訪れたオバマ氏が禎子さんの折り鶴を熱心に見ていたことが報道され、折り鶴に注目が集まる中、禎子さんの写真を大切にする大本さんを中国新聞が取材。その過程で増谷さんの住所が分かり、両親子の再会が実現した。

 61年ぶりに会ったこの日は、原爆の子の像を訪れ、母親2人が息子2人に禎子さんとの思い出を伝えた。「禎子ちゃんがよく2人の遊び相手になって童謡を歌ってくれたのよ」と喜美枝さん。英子さんは「薬の包み紙まで使って鶴を折っていた。病気を治そうとけなげに折り続けていたのに…」と声を落とした。

 幼かった当時の記憶がない息子2人は、母親の話に聞き入った。「折り鶴を通じて禎子さんの生前を想像し、核兵器の非人道性を考えてほしい」と大本さん。その一助にと、禎子さんたちと写った写真の複写を近く原爆資料館(中区)に寄贈する。

佐々木禎子さん
 2歳の時、爆心地から約1・7キロの広島市楠木町(現西区)の自宅で被爆。1955年2月に白血病と診断され、広島赤十字病院(現中区)の小児科病棟に入院した。回復を願って折り鶴を折り続けたが、同年10月25日に死去。級友たちの呼び掛けで58年、折り鶴を掲げる禎子さんをモデルにした「原爆の子の像」が平和記念公園(中区)内に建立された。

(2016年10月31日朝刊掲載)

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