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連載・特集

グレーゾーン 低線量被曝の影響 第7部明日に向けて <2> フクシマの被災者㊦ 

「安心」担うべきは誰か

 東京電力福島第1原発事故から5年半が過ぎ、避難指示の解除に伴って古里に帰還した住民や、避難指示が出なかった古里に暮らし続ける人たちが、復興と生活再建に向けた試行錯誤を各地で続けている。一方、事故前よりも高くなった放射線との「共存」が前提のため、帰還をためらう人たちを中心に反発や批判の声も少なくない。それぞれの選択が尊重される道はないのだろうか。日本政府が採用する被曝(ひばく)の数値基準「年間20ミリシーベルト」から考える。(金崎由美、馬場洋太)

国際セミナーで専門家と課題議論

住民自ら放射線防護

 10月上旬、山深い阿武隈山地に広がる福島県川内村の交流施設に、周辺市町村の住民や自治体関係者たち数十人が集まった。グループに分かれて2日間、福島第1原発事故後の生活上の課題や、放射性廃棄物の処分問題について語らった。

 「国の担当者は2、3年で交代するから住民本位の施策にならない」。そんな注文から、「生活は元には戻らない。どう納得できるかを考えている」という心境の吐露までさまざまだ。

 川内村は、2011年当時設定された緊急時避難準備区域の解除に伴い、「帰村」を宣言。残る避難指示区域も今年6月に解除された。復興に、とブルーベリーを栽培する男性は「実の測定値は食品基準の10分の1以下。それでも『食べられるわけがない』と言われる。地道に風評被害を拭い去るしかない」と訴えた。

 集いは「双葉地方におけるダイアログセミナー 国際放射線防護委員会(ICRP)の協力による対話の継続」。福島弁とともにフランス語や英語も飛び交うことが意外に感じられる。フランスなどから来た放射線防護の専門家も交じる。

 「線量を測りながら自ら被曝を減らす方法を知り、対話を通して課題を共有する。住民による『実践的な放射線防護文化』の側面支援」。ICRPのジャック・ロシャール副委員長が説明してくれた。旧ソ連のチェルノブイリ原発事故(1986年)後にベラルーシで「エートス」というプロジェクトを率い、住民を支援した。「福島にも25回は通っている」

 今回のセミナーは、同村に保健師を常駐させて住民支援と復興研究に取り組む長崎大が運営を担った。片峰茂学長が出席し、フランス原子力防護評価研究所(CEPN)との学術交流協定もその場で交わした。ロシャール氏は、フランスの原子力委員会や電力会社などでつくるCEPNの所長でもある。

 同席した山下俊一副学長は「原発大国フランスとして学びたいことがあるのだろう。われわれも彼らから学びたい。再稼働が進む中、原発事故はまた起こり得る。福島から教訓を得て専門家と住民の信頼関係を深めていく」と語った。

 ダイアログセミナーは原発事故の8カ月後にICRPが主催し、福島市で第1回を開催。ICRP委員の丹羽太貫氏(現・放射線影響研究所理事長)やロシャール氏たちが中心になり、福島県内で12回を重ねた。今年からはICRPの「協力」という一歩引いた形で3回開催している。

 肝心の地元住民の参加が欠かせない。ベラルーシの活動例を知って感銘を受けたという広島市安佐南区出身の安東量子さん(40)=いわき市=が「福島のエートス」という市民グループをつくり、ロシャール氏たちと連携して活動する。

 川内村と隣接するいわき市内で、住民と一緒に食品の放射能を計測し、「エートス」を実践する。「ここに残る、住む、と決めた人にも複雑な思いがあり、放射線のことは率直に語りにくい。客観的な測定データを集め、対話を重ねることで、安全を自ら判断する環境ができてくる。住民主体の活動を重視している」

 「ここに住む」といっても、被災地の現実は厳しくもある。川内村の場合、帰還した住民は約6割にとどまる。周辺の自治体と共通する問題だ。セミナーも初期の頃は、意見が異なる出席者の間で荒れた展開になることもあったという。

 「安心」の物差しは人によって大きく違う。誰が責任を担い、多少なりとも皆が納得できる方策を示すことはできるのだろうか。

「年20ミリ」 ICRP勧告に依拠

「事故の影響矮小化」批判も

 放射線防護の専門家による学術団体、国際放射線防護委員会(ICRP)は、被曝を抑えるための考え方や数値基準を「勧告」として発表している。原爆被爆者調査の蓄積を重要な基データとしており、日本を含む各国の放射線防護基準に取り入れられている。

 中でも2009年の勧告「ICRP111」は、原発事故などで汚染された地域の住民の被曝管理や生活再建という、長期間にわたる人間的な課題に焦点を当てている。ベラルーシでICRPのジャック・ロシャール氏たちが重ねた「エートス」活動の経験を反映。福島にも持ち込まれた。

 日本政府が住民帰還の目安にする「年20ミリシーベルト」も勧告に依拠している。緊急時の事故対応が終わり、復旧途中の期間は「年1~20ミリシーベルトの範囲の下方部分から設定」と定めている。「長期的には年1ミリシーベルト」が目標とも示す。

 「年20ミリシーベルト」について、ロシャール氏は「線量を低減するプロセスを行政が企画立案する上での象徴的な数字。参考値で『これ以上は危険』という線引きではない」と強調する。「実際、福島の人たちは多くて年数ミリシーベルト。線量低減の努力がしっかりなされている」

 ICRPは、浴びる線量がゼロから増えるのに比例して健康影響も直線的に増大するという、「しきい値なし」の前提に放射線防護の観点から立つ。一方で、「合理的に達成可能な限り低く(ALARA)」という原則も柱にする。基準の厳しさと、社会的、経済的な影響の両方を考慮するという。「生活の質と『ベクレルとの闘い』とのバランスが大事だ。一切妥協せず『ゼロ』に固執する生活はいい人生ではない」とロシャール氏は説く。

 住民が被災地に住み続けて日常の放射線防護を自ら担う―。そんなICRPの考えには、しかし、批判や反発も根強い。

 「事故の影響を矮小(わいしょう)化し、自己責任のようになっている。勧告は核の利用を続ける『加害者』の側から住民に被曝を強いるもの。さもなくば原発を存続させることができない」。チェルノブイリと福島で実態調査や健康相談活動を続け、被爆者調査にも詳しい兵庫医科大非常勤講師の振津かつみ医師は指摘する。「そもそも、しきい値なしという前提にも矛盾している。自然界から受ける放射線とは違い、事故により追加される被曝である以上、本来はゼロでなければならない」

国の責任・移住選択権示せ

「調査・救援」女性ネットの吉田由布子事務局長

チェルノブイリに先例

 避難先からの帰還、あるいは避難せずとどまることが前提となっている一方で、戻りたくない、という思いも切実だ。住民本位の施策とは何だろうか。チェルノブイリ原発事故の前例が参考になるという。現地の状況に詳しい東京の市民団体「『チェルノブイリ被害調査・救援』女性ネットワーク」の吉田由布子事務局長に聞いた。

 旧ソ連では事故5年後の1991年に「チェルノブイリ法」が制定された。国の責任に基づく被災者支援や、移住を選択する権利の規定が特徴だ。

 放射線量が年5ミリシーベルト以上の汚染地は居住できないが、年1~5ミリシーベルトのエリアには移住権がある。「権利」なら行使は当然という前向きさを伴う。とどまっても移住しても、選択は尊重される。住民同士の気持ちや関係性は違ってくる。

 ソ連の崩壊後も、法律はロシア、ウクライナ、ベラルーシで存続した。事故直後に年100ミリシーベルトという高い基準が設定されていたことや、財政難で法の運用が不十分であることなど、批判も少なくない。しかし学ぶべき点は多々ある。

 被災者が誰で、汚染地域がどこであるかを法律で定義し、被災者支援と補償に国が責任を持つ、としている。翻って、福島には明確な定義がない。支援策はなし崩し的に縮小されていく。県民健康調査も、国が福島県に事実上丸投げしている。

 低線量被曝の長期的な影響が科学的に解明しきれていないことを踏まえ、チェルノブイリ法は、病気になってからではなく、健康リスクを負ったこと自体を補償する性格を持つ。

 日本の被爆者援護法に似た面がある。被爆時の線量がわずかでも、被爆者健康手帳の交付を申請できる。医療費負担は事実上なく、健診の受診が保証される。「放射能に起因する健康被害が他の戦争被害とは異なる特殊な被害であることにかんがみ」た援護だ。福島にあってもおかしくない。

 私は90年から被災地の医師や研究機関と一緒に活動している。被災者支援の制度や施策を理解していたものの、根拠法には特に注目していなかった。福島第1原発事故を機に研究者を通して日本に紹介され、福島でも生かすべき内容だと実感した。「国家は子どもの育ちに責任を持つ」という、ある意味で社会主義的な価値観も法に込められているのだろう。

 ロシアなどで「福島の線量限度は年20ミリシーベルト」と話すと、「考えられない」「事故の収束作業の話か」と言われた。「年1~20ミリシーベルトの下方部分から設定する」とした国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告に問題があると考えるが、日本政府はそれを都合よく解釈し、上限値を当てはめている。日本のICRP委員も政府方針に協力している状況で、危機感を覚える。

 2012年に子ども・被災者支援法が成立し、前進を期待した。しかし基本方針の改定で「線量が大幅に減少し、新たに避難する状況にはない」と帰還に重点が置かれ、骨抜きになった。国の責任の明確化、移住の権利の確立など、日本も取り入れるべきだ。

(2016年11月4日朝刊掲載)

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