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社説・コラム

『論』 アフガンと山口県人 平和な時代の記憶つなぐ

■論説主幹・佐田尾信作

 佐波川が河口に近づく辺り、防府市真尾は一面に水田が広がる。尾崎幸宣、昭子の夫妻の住まいはごく普通の農家である。80年前、日本人として初めてアフガニスタンで農業を指導した尾崎三雄が先代のあるじ。古い革製トランクや異国からの手紙の束が、大切に保管されていることに驚いた。

 尾崎は山口市生まれで、この家に養子で入った後、1935年から3年間、王政アフガン政府の要請で農林技師として渡航。戦後は山口県農業試験場長を務め、晩年は帰農してブドウ、メロン、イチゴなど収入になる作物を手掛けた。だが、アフガンを語ることはなく、未整理の資料があるとだけ言い残して85年に世を去る。

 彼が異郷で撮った写真約400枚の一部を、「日本人が見た’30年代のアフガン」(石風社)という写真集で知ることができる。

 そこには小麦のわらを積んだ山、桑林で貯蔵されるニンジン、干しぶどうの乾燥小屋などの風景があり、かんがい水路で遊ぶ子らの姿が見られる。今なら物語の世界といえるキャラバンサライ(隊商)や過去の王朝の陵墓が写り、後年無残にも壊されるバーミヤン東大仏が健在な時代である。

 戦後、この国は戦乱によって国土が荒廃した。78年の軍事クーデターに続いて旧ソ連が侵攻。ソ連軍撤退後も内戦が続き、96年にイスラム武装勢力タリバンが政権を打ち立てた。2001年の米中枢同時テロを受け、米英軍はタリバンが国際テロ組織アルカイダをかくまっているとして、「対テロ戦争」に踏み切る。

 それでも、日本のアフガンへの農業支援は脈々と続いてきたという。柳井市議の中川隆志は3年前まで、国際協力機構(JICA)の専門家として稲作振興を支援していた。主食の米や小麦の自給は国の再建に欠かせない。タリバンの資金源になるケシ栽培から切り替えてもらうことも必要だ。

 治安は悪かった。滞在中は空港から防弾車で移動し、首都カブールのホテルに缶詰めの日々が続いたという。しかし、中川は「ヒンズークシ山脈の雪解け水で稲作ができた国です。ゼロからのスタートではない」と考えている。

 30年以上、医療や土木を通じてアフガンを支援してきた医師中村哲も、作家澤地久枝との対談で「沙漠(さばく)という言葉から連想するようなやせ地では決してない」と語る。水路を掘ると、翌年から小麦が収穫できて驚いたという。

 それだけに、日本の国会に呼ばれて、もともと乾燥地帯だろう、干ばつというのは本当か―と問われると、中村は「冗談じゃない」と反論したという。現場に対する謙虚さがなく、議論だけが浮遊する日本の風潮に憤ったのだ。

 尾崎の話に戻ろう。彼は帰国後、ラジオ出演し、若きアフガニスタンを育てるのはアジアの盟主日本の責務ではないか、皆さんの記憶の中から消えることのないよう願いたい―と呼び掛けている。つましくても穏やかな時代の農業国アフガンの記憶が彼我の国でよみがえるなら、カオスと化した世界に少しは希望が持てよう。

 彼がアフガンから真尾に持ち帰ったザクロが01年に初めて実を結んだ。「日本の気候が合うようになったのでしょうか。今までは花を付けるだけでした」と昭子。アフガンへの武力攻撃が始まった年だが、偶然にも尾崎の資料が地元公民館の文化祭で初めて世間の目に触れた年でもある。それが写真集出版のきっかけになった。

 ことし9月、山口と中東・イスラムの交流を長年実践してきた県立高校教員藤村泰夫の提案で、山口大に学ぶアフガンの留学生たちが初めて尾崎家を訪れ、感謝の言葉を述べた。米中枢同時テロ15年の節目とはいうが、日本とアフガンの長い付き合いに思いをはせる節目にすべきでもあろう。(文中敬称略)

(2016年11月24日朝刊掲載)

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