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社説・コラム

『今を読む』 京都大大学院准教授・伊藤正子 

ベトナムの原発計画 政府撤回 底流に市民の力

 ベトナム国会が、稼働すれば東南アジア初となるはずだった原発の建設計画を中止する政府決議案を賛成多数で承認した。計画の白紙撤回である。福島第1原発事故を経験した日本の一市民として、英断として評価したい。

 ベトナムはグエン・タン・ズン前首相の下で原発計画を推進し、国会は2009年、中部ニントゥアン省の2カ所に4基を建設する計画を承認した。第1原発2基はロシアの受注が決まり、日本は第2原発2基を受注していた。

 最高権力機関ベトナム共産党政治局が、非公開ではあったが、今年7月に原発建設中止を決定し、国会で先月、正式に中止が議決されたのだ。

 ベトナム側の中止理由は財政難とされている。既に巨額の投資をしたロシアや日本を納得させるには無難な理由である。ベトナム電力公社は外貨建てで大量の借入金を抱え、ドン(ベトナムの通貨)安による為替差損で今年に入って巨額の負債を負うなど、確かに台所は苦しい。

 だが、ベトナムの借金まみれは今に始まったことではなく、財政難は表向きの理由にすぎない。主な理由は、筆者がコンタクトできるベトナムの識者たちによれば、以下のようなものである。

 まず、今年初めの政治指導部人事である。原発推進派だったズン首相が引退する一方で、ライバルのグエン・フー・チョン共産党書記長は留任し、経済性や安全性に疑問を呈す元書記長や元国家主席ら党の複数の重鎮の後押しもあって、チョン書記長主導で中止が決まったという。

 第2に、環境破壊に対する市民社会の反応である。日本ではほとんど報道されなかったが、ベトナムでは今年4月、中北部4省の沿岸で魚が大量死した。台湾企業が出資する製鉄所からの排水に重金属が含まれていたためで、地元や諸都市で企業や政府に対して何度も大規模な抗議デモが発生し、失業した漁民たちからの集団訴訟も起きた。

 もしこれが放射能だったら、環境の回復は全く見通せないだけではなく、成長した市民社会を抑えられず対応は困難になるという認識が、指導部に広まったのである。

 第3に、国際環境の変化がある。ロシアと中国の関係強化により、領土や資源を巡って反中国意識の強いベトナムでは、ロシアへの信頼感が減退した。南シナ海を巡るオランダ・ハーグの仲裁裁判所の判断の受け入れを中国が拒否した際、「中国の立場を支持する」と述べたロシアのプーチン大統領はもはや信用ならず、ロシアに原発建設を任せることに安全保障上の懸念を抱くようになっている。当面の対応が、日本からの導入も含めて原発計画そのものを白紙に戻すことであった。

 そして第4に、経済的な理由である。福島原発事故後、新たな安全対策が必要となり、建設コストは当初の約100億ドル(約1兆1100億円)から約270億ドルに膨れ上がる見通しとなった。さらに、化石燃料の価格が下がって原発の経済的優位性が確保できず、電力需要の伸びも当初予測ほど大きくない。

 日本では民主党政権下で菅直人首相がズン首相とのトップ会談で原子炉2基の建設を受注し、11年1月、日越原子力協定に署名した。中国の台頭を懸念し、経済的、軍事的にアジアでのプレゼンスを確保しようとする米国の要請に従い、官民連携の下、原子炉本体の輸出に加えて建設、燃料調達、メンテナンスなど、パッケージ型インフラ輸出を推進するのが目的だった。

 他方、ベトナムでは国家が原発について報道規制してきたので、福島原発の事故もとっくに収束したと多くのベトナム人が思っており、原発への関心は全く低いままだ。ドイツや台湾のような反対世論の盛り上がりはない。

 中止は共産党政治局が独断で決めたもので、民主的手法とはいえない。政府内には関係省庁を中心に根強い推進論があり、政治指導者の交代により決定は覆りかねない。私たちは、徐々に育ちつつあるベトナムの市民社会に、負の側面を含めた原発についての最新の情報を今後とも伝え続けていく必要があろう。

 64年広島市安佐南区生まれ。毎日新聞記者を経て東京大大学院で博士(学術)取得。06年から京都大大学院アジア・アフリカ地域研究研究科准教授。専門はベトナム現代史。著書に「エスニシティ<創生>と国民国家ベトナム」(東南アジア史学会賞受賞)など。

(2016年12月6日朝刊掲載)

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