『言』 世界遺産と日本 人類史上の価値 共有を
16年12月7日
◆寺脇研・京都造形芸術大教授
京都造形芸術大教授で、教育評論家の寺脇研さん(64)は元文部科学省官僚である。文化庁文化部長も経験し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)や世界遺産とも関わりが深い。広島県教育長時代には原爆ドームと厳島神社の登録準備に携わった。世界遺産のあるべき姿とは何か。登録20年を迎えた二つの遺産は「人類の宝」としての役割を果たしているか。忌憚(きたん)なき意見を聞いた。(聞き手は論説副主幹・岩崎誠、写真・高橋洋史)
―広島で世界文化遺産への登録にどう関わったのですか。
県教育長として1993年12月に赴任し、当時の藤田雄山知事から「県政の最重点事項として何が何でも」と話があったんです。まだ「世界遺産って何」という時期でしたが、私は文部省課長時代に屋久島の世界自然遺産登録に携わったものですから。その経験も生かして文化庁に働きかけ、ドームと厳島神社の登録への道筋は付けられたと思います。20年前の決定時は、もう国に戻っていましたが。
―一つの県からの同時登録は今ならぜいたくな話です。
国内の誘致争いなどない時代でしたからね。特に厳島神社はエスカレーターに乗ったようなものでした。法隆寺と姫路城、京都、白川郷と登録して次は厳島神社という流れができていたんです。文化庁も91年の台風で社殿が被害を受け、自分たちも努力して復旧させたとの思い入れがあったかもしれません。
―ドームをセットにしたのは何か戦略があったのですか。
日本として近現代の負の遺産の登録は初めて。アウシュビッツ強制収容所(ポーランド)が世界遺産ならドームもなり得ると考えましたが、負の遺産一本は難しいところもありました。こんな海の上に社殿や鳥居を建てるのは人類としてすごいと、誰もが思うのが宮島です。それとタイミングを合わせたことがプラスに働いたと思います。
―20年前は米国や中国からドーム登録に異論も出ました。
これは歴史観の問題にもなりますが、私は広島が原爆でひどい目に遭った記録としてドームを持ち出すわけではないとの思いでした。初めて核兵器が使われた悲劇を人類が忘れてはならないということです。中国に対しては「日本の被害の歴史」ではない、米国に対してはあなたたちを憎むために登録するのではないのだ、と。核を使うと、こういうことが起きるという悲惨な記憶を登録するものだとして他の国も納得しました。
―思えば昨年登録の「明治日本の産業革命遺産」も韓国の反発が土壇場までありました。
日本はすごいぞと安倍政権が国威を発揚する意図がくみ取れたわけで、しかも文化庁を蚊帳の外に置いて官邸主導で「長崎の教会群」より「明治日本」の登録を優先しました。文化的というより政治、外交的視点であり、それに対して被害を受けた側の韓国がちょっと待ってくれと言って、同調する国もありました。ドームは全く違います。国威発揚になり得ず、世界遺産の政治利用ではありません。
―いつしか日本は、本質からずれてきたと考えるのですね。
特にこの何年かは大騒ぎしすぎで、世界遺産バブルのようで恥ずかしい。世界遺産条約が1972年にできて20年、日本は批准せずほったらかしにしてきたのに、お金もうけになるからと食いつくのはおかしくはないですか。ノーベル賞も同じですが、根っこにはヨーロッパの権威に弱い明治以来の「舶来上等主義」があると思います。地方のまちおこしなら世界遺産のブランドに頼るより、新たに制度ができた「日本遺産」こそどんどん増やすべきです。自分たちで価値を認め、見てもらいたいと思うものなのですから。
―今ある世界遺産はどんな役割を果たせばいいのですか。
世界遺産の意味は人類史上の価値を共有すること。アウシュビッツには各国語で語るガイドがいます。例えば原爆ドームでは、この廃虚がなぜ生まれたか自国語で語り継げる人たちを、世界中からリクルートしたらどうでしょう。言葉だけでなく、米国人をはじめ自分たちのアイデンティティーとして原爆をどう受け止めるか。日本を訪れる人たちに説明して「あなたたちの遺産でもあるんですよ」と伝えるのが一番だと思います。
てらわき・けん
福岡市生まれ。75年東京大法学部卒、文部省入省。職業教育課長を経て93~96年広島県教育長。大臣官房政策課長、大臣官房審議官、文化庁文化部長などを歴任。「ゆとり教育」を推進して「ミスター文部省」とも呼ばれた。06年退職後、京都造形芸術大教授。映画評論家としても知られる。著書に「文部科学省」「大田堯・寺脇研が戦後教育を語り合う」など。
(2016年12月7日朝刊掲載)
京都造形芸術大教授で、教育評論家の寺脇研さん(64)は元文部科学省官僚である。文化庁文化部長も経験し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)や世界遺産とも関わりが深い。広島県教育長時代には原爆ドームと厳島神社の登録準備に携わった。世界遺産のあるべき姿とは何か。登録20年を迎えた二つの遺産は「人類の宝」としての役割を果たしているか。忌憚(きたん)なき意見を聞いた。(聞き手は論説副主幹・岩崎誠、写真・高橋洋史)
―広島で世界文化遺産への登録にどう関わったのですか。
県教育長として1993年12月に赴任し、当時の藤田雄山知事から「県政の最重点事項として何が何でも」と話があったんです。まだ「世界遺産って何」という時期でしたが、私は文部省課長時代に屋久島の世界自然遺産登録に携わったものですから。その経験も生かして文化庁に働きかけ、ドームと厳島神社の登録への道筋は付けられたと思います。20年前の決定時は、もう国に戻っていましたが。
―一つの県からの同時登録は今ならぜいたくな話です。
国内の誘致争いなどない時代でしたからね。特に厳島神社はエスカレーターに乗ったようなものでした。法隆寺と姫路城、京都、白川郷と登録して次は厳島神社という流れができていたんです。文化庁も91年の台風で社殿が被害を受け、自分たちも努力して復旧させたとの思い入れがあったかもしれません。
―ドームをセットにしたのは何か戦略があったのですか。
日本として近現代の負の遺産の登録は初めて。アウシュビッツ強制収容所(ポーランド)が世界遺産ならドームもなり得ると考えましたが、負の遺産一本は難しいところもありました。こんな海の上に社殿や鳥居を建てるのは人類としてすごいと、誰もが思うのが宮島です。それとタイミングを合わせたことがプラスに働いたと思います。
―20年前は米国や中国からドーム登録に異論も出ました。
これは歴史観の問題にもなりますが、私は広島が原爆でひどい目に遭った記録としてドームを持ち出すわけではないとの思いでした。初めて核兵器が使われた悲劇を人類が忘れてはならないということです。中国に対しては「日本の被害の歴史」ではない、米国に対してはあなたたちを憎むために登録するのではないのだ、と。核を使うと、こういうことが起きるという悲惨な記憶を登録するものだとして他の国も納得しました。
―思えば昨年登録の「明治日本の産業革命遺産」も韓国の反発が土壇場までありました。
日本はすごいぞと安倍政権が国威を発揚する意図がくみ取れたわけで、しかも文化庁を蚊帳の外に置いて官邸主導で「長崎の教会群」より「明治日本」の登録を優先しました。文化的というより政治、外交的視点であり、それに対して被害を受けた側の韓国がちょっと待ってくれと言って、同調する国もありました。ドームは全く違います。国威発揚になり得ず、世界遺産の政治利用ではありません。
―いつしか日本は、本質からずれてきたと考えるのですね。
特にこの何年かは大騒ぎしすぎで、世界遺産バブルのようで恥ずかしい。世界遺産条約が1972年にできて20年、日本は批准せずほったらかしにしてきたのに、お金もうけになるからと食いつくのはおかしくはないですか。ノーベル賞も同じですが、根っこにはヨーロッパの権威に弱い明治以来の「舶来上等主義」があると思います。地方のまちおこしなら世界遺産のブランドに頼るより、新たに制度ができた「日本遺産」こそどんどん増やすべきです。自分たちで価値を認め、見てもらいたいと思うものなのですから。
―今ある世界遺産はどんな役割を果たせばいいのですか。
世界遺産の意味は人類史上の価値を共有すること。アウシュビッツには各国語で語るガイドがいます。例えば原爆ドームでは、この廃虚がなぜ生まれたか自国語で語り継げる人たちを、世界中からリクルートしたらどうでしょう。言葉だけでなく、米国人をはじめ自分たちのアイデンティティーとして原爆をどう受け止めるか。日本を訪れる人たちに説明して「あなたたちの遺産でもあるんですよ」と伝えるのが一番だと思います。
てらわき・けん
福岡市生まれ。75年東京大法学部卒、文部省入省。職業教育課長を経て93~96年広島県教育長。大臣官房政策課長、大臣官房審議官、文化庁文化部長などを歴任。「ゆとり教育」を推進して「ミスター文部省」とも呼ばれた。06年退職後、京都造形芸術大教授。映画評論家としても知られる。著書に「文部科学省」「大田堯・寺脇研が戦後教育を語り合う」など。
(2016年12月7日朝刊掲載)