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Peace Seeds ヒロシマの10代がまく種(第39号) 爆心の街

 平和記念公園(広島市中区)がある場所は、毛利輝元が16世紀末に広島城を築城して以来、城下町として発展してきました。明治時代以降も、中国地方随一(ずいいち)の繁華街(はんかがい)として栄えました。旅館、病院、郵便局…。大きな寺もありました。さまざまな店も並び、そこに多くの人が住み、行き交っていたのです。

 しかし、爆心地からわずか500メートル以内。人も家も店も一瞬(いっしゅん)で壊滅(かいめつ)しました。

 当時、材木町と呼ばれ、今は原爆資料館が立つ場所で発掘(はっくつ)作業が進められています。私たちは、実際に作業を体験し、遺品とともに、そこに確かにあった人々の営みを見つけました。子どもたちが遊んだりけんかしたり。当たり前の風景だったと実感しました。

 何げなく歩いている公園。ここに暮らしていた人たちの生活、そして被爆の傷痕(きずあと)が、そのまま見られるようになれば、未来に向けて、より多くの人に平和の大切さと戦争・原爆の非情さを、より訴(うった)えられるはずです。

<ピース・シーズ>
 平和や命の大切さをいろんな視点から捉(とら)え、広げていく「種」が「ピース・シーズ」です。世界中に笑顔の花をたくさん咲かせるため、中学1年から高校3年までの30人が、自らテーマを考え、取材し、執筆しています。

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奪われた営み 足跡たどる ジュニアライター体験ルポ

当時の日常 垣間見た

 私たちは「両刃草削(りょうばくさけず)り」というスコップの先を直角に曲げたような道具で、材木町の盛本さんの家の裏の辺りを掘(ほ)りました。焼(や)け焦(こ)げた木の周りの砂を丁寧(ていねい)に取り除いて、そっと持ち上げても、もろくて一部しか取れません。裏は燃えきっていなくて木本来の色でした。壁(かべ)材のような白い色が付いていた部分もありました。

 曲がった丸くぎや赤茶けたタイルなど家の一部や、緑色をした化粧(けしょう)ダイルの破片、青いラインの入った茶わんのかけらなど当時の暮らしが分かるものが出てきます。500円玉くらいの大きさのかけらが多く、すさまじい爆風でぐちゃぐちゃになったのかなあ、と思いました。意外だったのは食器類。今も使っているようなものでした。

 普段(ふだん)何げなく歩いている公園の下に、当時の日常生活の一部を実際に見られてどきどきしました。(中3平田佳子、中2斉藤幸歩)

資料館の地下 発掘進む

 原爆資料館(広島市中区)地下の発掘調査は昨年11月に始まりました。資料館の耐震(たいしん)化工事で基礎(きそ)部分に免震ゴムを入れるのがきっかけです。近代の一般(いっぱん)の街並みが調査の対象になるのは珍(めずら)しく、被爆地という観点で調査しています。

 被爆した時の地面は70~80センチ掘ると現れます。茶器やガラス片を始め、井戸(いど)や銭湯の脱衣(だつい)所のタイル床、下水管など大規模なものまで数多く出土しました。戦闘機(せんとうき)の描かれた茶わんの破片やビー玉、人形といった、幼い子どもが使っていたであろう生活感あふれる物も見つかっています。被爆前の地図と比べて、実際は15~20メートルほど南に当時の建物が位置しているのも分かりました。

 私たちが普段(ふだん)歩いている地面の下のそう深くない所に71年前の生活、そして原爆による深い傷痕(きずあと)が残っているのです。「人々が住んでいたこと、そして積み上げてきた歴史、そのたくさんの生活が一気に奪(うば)われたことを忘れないでほしい」と広島市文化財団学芸員の桾木(くのぎ)敬太さん(42)。一度は焼け野原になった広島の地の上で、今の平和な生活が生まれている。その大切さを考えて、これからを過ごしていきたいです。(高3谷口信乃、中2佐藤茜)

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発掘場所に自宅があった山迫さん

溶けた瓶 記憶呼び戻す

 原爆資料館地下の発掘調査場所に自宅があった山迫裕三(ひろみつ)さん(81)=写真・広島市西区。父が配っていた牛乳の溶(と)けた瓶(びん)が出たと聞き、家の場所がはっきりし「良い街だったなあ」と思い返したそうです。

 戦前は酒やパンを販売(はんばい)する店を営んでいました。近所の人から「パン屋のひろちゃん」と呼ばれた山迫さん。家の南のひょうたん池で、竹の先に付けた鳥もちでヤンマを捕(と)ったり、池の周りにあったツツジの蜜(みつ)を吸ったりして遊びました。手打ち野球もしました。

 笑顔あふれる生活は戦況(せんきょう)の悪化とともに変化。パンやケーキがなくなり、乳幼児や病人の家に牛乳配給をするようになりました。  原爆が投下された時、中島国民学校4年だった山迫さんは、三良坂町(現三次市)に集団疎開(そかい)中でした。両親、妹、弟も自宅におらず無事でした。

 父が9月10日ごろ疎開先に迎(むか)えに来て、一緒(いっしょ)に帰りました。家のあった場所を掘りましたが、米も本も真っ黒な炭に。今そこに平和記念公園があることについて「電柱が1本でも残っていれば、人が住んでいたと感じてもらえるのに」と話します。(高1岡田実優)

町内の幼稚園に通った田中さん

戦争末期 楽しみ乏しく

 材木町から少し南にある水主(かこ)町の軍用旅館で幼少期を過ごした田中稔子さん(78)=写真・広島市東区=は、現在の原爆資料館の辺りにあった誓願(せいがん)寺内の無得幼稚園に1944年4月から1年間、通いました。

 戦争末期で、園に遊具は既になく、遊戯(ゆうぎ)会も開かれませんでした。「夏休みもなく楽しいこともなかった」と話します。近くのひょうたん池で甲羅(こうら)干しする黒い亀(かめ)を見たり、近所の元安川で遊んだりするのが楽しみでした。

 原爆が投下された時、田中さんは疎開(そかい)先の牛田にいて死を免(まぬが)れました。泣(な)き叫(さけ)ぶ力もなく死んでいく女学生たちがいる中で、自身も髪(かみ)が焦(こ)げ、腕(うで)にやけどを負い、意識を失います。数日後、死体などの強烈(きょうれつ)な臭(にお)いによって目が覚めました。

 原爆は、多くの庶民(しょみん)が犠牲(ぎせい)になりました。平和記念公園になっている場所もその一つ。後世に伝えるために、発掘に携(たずさ)わる研究者と被爆者らで一緒(いっしょ)に現地を検証するとともに、地下に眠(ねむ)る街を一部でも残してほしい。そう願います。(中2斉藤幸歩)

前回発掘に携わった石丸さん

広島の歴史 現物で見て

 国立広島原爆死没者追悼(ついとう)平和祈念館を建設する際に発掘作業に携(たずさ)わった元広島大教授の石丸紀興さん(76)=写真・広島市南区=は、「被爆の痕跡(こんせき)だけでなく、広島の長い歴史を現物で見てほしい」と言います。平和記念公園を訪れる人には、被爆前から公園だったと考える人がいるそうです。だからこそ、発掘には価値があるのです。

 既に発掘されている場所以外でも、公園内を掘れば当時の生活の跡が出ると考えています。発掘品については、想像しやすい展示を提案。例えば、発掘現場の一部を残し、強化ガラスを用いて上から見られるようにします。「原爆資料館の展示と結びつけることで、資料館を訪問する人がより原爆の被害の大きさを実感できる」と説明します。

 当時の様子が隠(かく)れてしまった公園内に、かつての道路跡の表示もアイデアの一つ。「かつてはそこに街があったことを感じ取ることができる」と話します。(高2芳本菜子、中2佐藤茜)

(2016年12月15日朝刊掲載)

 複数の取材で、「強化ガラスで遺跡の上を覆って保存、展示する」という案を聞いたのが印象に残りました。実現性は乏しいとのことですが、実現できれば後世の人々が当時の街並みや原爆の悲惨さをより現実的に感じられるのではないかと思います。(谷口)

 実際に発掘調査に関わった石丸先生に、発掘調査のことだけではなく、これから原爆資料館を工夫して、見つかった遺品を生かしていきたい、などの具体的な思いを聞けてよかったです。遺品が私たちに語りかけるものを最大限生かす方法を考えなければならないと思いました。(芳本)

 「もともと公園だったと思っている人がいる」と聞きました。私も小学生の頃は平和記念公園のある場所は、原爆投下以前も公園があったと思っていました。でも、そこに住んでいた人にとっては今の私たちの住む地域に思い出があるようにたくさんの思い出があることを実感することができました。(岡田実)

 私は、戦時下におかれた幼稚園は、今では到底ありえないことを教育として行っていたことに驚きました。戦意向上のために軍歌を歌い、遊びも行事もしないという、当時の子供に対して行っていたことが、戦後、やりたいことを思い切りできたり、参戦を強いられることのなかったりするような今日の教育につながっていったのに感慨深さを感じました。(平田)

 私は平和記念公園の下に何が埋まっているか、平和記念公園の辺りで過去何があったかなど考えたことがありませんでした。しかし、発掘調査が始まってから興味を持つようになりました。今回の取材で、知ることができて良かったです。そして、この事実を他の人にも伝えなければ、と思いました。(斉藤)

 私は今まで被爆前の人々の暮らしについてあまり考えたことがありませんでした。しかし今回の取材を通して、被爆当時の広島を知ることだけが「原爆」を知ることではないということに気付きました。この取材をきっかけに、これからはさまざまな方向から原爆に向き合っていきたいです。(佐藤)

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