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連載・特集

『生きて』 都市・建築研究者 石丸紀興さん(1940年~) <7> 海外の旅

戦災都市の研究起点に

 1971年は、私にとっていろんな始まりの年だった。夏休みの8月、初めて海外を巡ったのもその一つ。建築の雑誌社が募集し、英国やフランス、オランダ、ドイツなどを20日余りかけて巡る旅でした。

 欧州の都市と建築を見るのが目的。例えば、英国にはニュータウンというのがある。18世紀末の産業革命以降、労働者の劣悪な生活環境を何とかしようと、住まう場所と働く場所、憩う場の全てがそろうような街をつくるわけです。ロンドンの郊外にも、こうした街が幾つも建設された。住むだけの日本のベッドタウンとは、ちょっと違うんですね。

  ロンドン北方のコベントリーも訪問。第2次大戦の爪痕と戦争遺跡に出合う
 40年、ドイツ空軍の爆撃で市街地が破壊され、中心部の大聖堂も被害を受けた。訪れた時、大聖堂の鐘楼や壁が、62年に新築された聖堂のそばに残されていました。戦後の復興過程で、街の中にはショッピングセンターができ、そこに歩行者専用路が造られた。専用路の先に戦争遺跡の大聖堂が見える。当時は意識が及ばなかったんだけど、帰国して2、3年後、あっと思った。

 広島の平和記念公園の原爆慰霊碑から原爆ドームへと続く、軸線と同じ思想ではないか、と。設計した丹下健三さんも、こうした欧州の復興計画を知っていたのかどうか。多くの街が破壊された英国などでは、戦時中から計画をかなり立てていましたから。

 この旅をきっかけに、新たな研究視点が呼び起こされました。戦争体験を組み込んだ都市をつくっていく道もあるんだ、と。その後もコベントリーにとどまらず、ドイツやフランス、ポーランドなどの戦災都市を訪ねるたび、観光案内所で戦争遺跡があるか聞いて、建物の歴史や残されたいきさつを調べてきました。

 たいてい、取り壊すか否かの議論を経て保存されている。街のシンボルとして、戦争の教訓をかみしめる存在として。それは、被爆地広島の原爆ドームともつながる。海外の旅は、私が進めてきた戦後広島の復興史研究や被爆建物の調査への大きな糧になりました。

(2016年12月14日朝刊掲載)

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