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連載・特集

『生きて』 都市・建築研究者 石丸紀興さん(1940年~) <9> 聞き取り調査

戦後復興 肉声でたどる

  母校の東京大に提出した博士論文の審査が通り、1978年5月から戦後広島の復興関係者のインタビューに乗り出した
 「私らが100メートル道路(平和大通り)の計画線を引いた」―。広島大工学部助手になった66年の暮れ、県職員にこんな話を聞きました。へーと思いながら、行政から委託された都市計画づくりなどが忙しくて、詳しい調査に踏み切れなかった。ところが、いざ調べようと思ったら、あるキーパーソンが亡くなっていることを知って。関係者が健在のうちに聞かなければ、と始めました。

 1人目は、被爆前後に県都市計画課長だった人。66年に話を聞いた職員の上司でした。原爆投下から半年後の46年2月、県は市に先駆けて復興事務所をつくった。同年春ごろには計画の基本図面ができ、100メートル道路や後に平和記念公園となる公園も構想されていました。

 広島の戦後復興は、49年の広島平和記念都市建設法の制定と、それに基づく52年の建設計画で語られることが多い。被爆から数年間のことは、はしょられがちです。でも、そこに迫らないと実態に触れられないんじゃないかと思います。

  79~81年、広島の復興関係者30人の証言を選び、3部作の冊子にまとめて自費出版した
 テープレコーダーを抱え、80年代末まで全国を回りました。被爆地広島、長崎のほか、戦災都市の名古屋、大阪、横浜などの復興関係者も訪ね、計200人近くになった。

  2013年から、証言テープを広島市公文書館に順次寄贈した
 中でも印象深かったのが、45年11月に国が設置した戦災復興院の計画局長を務めた方。人づてに東京在住と聞き、電話帳の同姓同名の人に片っ端から電話して、何とかたどり着きました。

 インタビューすると、100メートル道路も実は、戦災復興院が広島県などに指示していた。45年末、戦災地復興計画基本方針を閣議決定していますから。戦後の混乱期に奮闘した官僚もいた。褒めすぎはいけないけど、揺るぎない信念を持って。そういう人たちの存在を、私らは大切にしなきゃいけないと思うんです。

(2016年12月17日朝刊掲載)

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