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社説・コラム

『今を読む』 作家・石浜みかる 

真珠湾75年と日系移民 父祖の辛苦に思いはせる

 ことし5月、アメリカのオバマ大統領が広島市中区の平和記念公園で献花し、被爆者たちの同席を得て演説した。その発語(ほつご)は「71年前、雲一つない明るい朝、空から死が落ちてきて、世界は変わった」というものだった。

 この表現は人ごとのようで物足りない、という意見が相次いだ。私も不満だった。死は勝手に降ってはこない。けれども「空から死が降る」という点でいえば2011年の福島原発事故を想起するまでもなく、現代を象徴する鮮烈さを持ち、長く記憶される言葉だと思い直したのだ。

 私の母方の祖母は瀬戸内海の周防大島の出身であり、祖父はその隣の平郡島の出身だった。どちらの島も生活力旺盛な移民の母村で、明治になると島人は海をおそれることなく外へと出て行った。

 祖父母は真珠湾のあるハワイ・オアフ島で出会って結婚し、ハワイ島に移ってサトウキビ耕地で働きながら4男2女を育てた。1920年代になると、うち5人の子は製糖工場の労働に見切りを付け、アメリカ本土に渡った。末娘の私の母だけが両親に連れられ、周防大島に戻った。

 アメリカのヨーロッパ系移民労働者の大群のなかに、中国人労働者が入って行ったのは19世紀半ばである。大陸を横断する鉄道敷設の安価な労働力として呼びこまれ、ほぼ工事が終わると彼らはカリフォルニア州に流入した。白人労働者たちが強く反発し、中国人排斥法ができた。

 日本人労働者が集団で渡米し始めたのもその頃である。幕末維新に生まれた1世たちは、江戸時代に由来する秩序と規範の感覚をもって、ガマンとガンバリで働いた。

 だが、祖国は日清、日露の戦争に勝利し韓国を併合するなど、帝国主義的な国威が発揚されるようになる。折しも第1次大戦でヨーロッパの戦場に出兵した白人たちが復員してきたものの、職はなかった。彼らの不満は、「写真花嫁」を呼び寄せて生活を築き上げる日本人に向かう。

 ハワイから本土に渡った私の伯父や伯母たち2世は、カリフォルニアの農場で働き、子どもたちを育ててどうにか農地を借りた。自立したファーム(農場)を持つ希望も目に見えてきたとき、軍国日本による、あの真珠湾奇襲攻撃が起きたのだった。伯父や伯母たちは一瞬にして「敵国人」になる悔しさを想像したことがあっただろうか。

 当時の日本はアメリカから航空燃料を買って中国と戦争をしていた。南京で市民に対する大虐殺が起きたと大きく報道され、国内では「日本に航空燃料を売るな」という世論が高まった。石炭、くず鉄、銅、さらに小麦なども次第に売り渋りが出て、買い付けに出た日本の船が空で戻ることもあったという。

 そして日本は連合国軍との戦争に突入した。計約15万人の1世と2世は財産を全て奪われ、内陸部の各地の収容所へ移された。戦後、日系市民は強制収容に対する補償を勝ち取っているものの、歴史の荒波に翻弄(ほんろう)されたことが私には人ごととは思えない。

 80年、私はアメリカの親族を訪ねた。3世のいとこたちが20人近くいた。カリフォルニアの州都サクラメントには、ずっと年上のいとこが精神を病んで静かに暮らしていた。彼は退役軍人。収容所の日系2世ばかりで編成した442部隊に入隊し、ヨーロッパ戦線で戦う。300人の兵士を救出するため、800人の日系兵士が戦死する激戦をくぐっていた―。

 安倍晋三首相が近く真珠湾に赴き、戦没者慰霊の献花をする。75年前のよく晴れた日曜日の朝、空と海から日本軍が宣戦布告前に奇襲を掛けた地で所感を述べるという。貧しさを克服しようと祖国を離れたのに、その祖国が起こした戦争ゆえ異国で辛酸をなめた日系移民の子孫たちはどんな思いで聞くことだろう。

 また、日本による戦争で犠牲者を最も多く出したのはアジアの国々である。「日米の和解」の演出だけでいいのか―。そう思って首相のメッセージに注目しているのは、日米の戦争の受難者たちだけではないはずだ。

 41年神戸市生まれ。神戸女学院大卒。著書に「あの戦争のなかにぼくもいた」「変わっていくこの国で―戦争期を生きたキリスト者たち」など。キリスト者だった父義則(故人)が戦時中に治安維持法違反で投獄され、広島刑務所で被爆している。神奈川県藤沢市在住。

(2016年12月20日朝刊掲載)

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