×

連載・特集

『生きて』 都市・建築研究者 石丸紀興さん(1940年~) <11> 世界平和記念聖堂

建設の苦難 著作で紹介

  1983年7月、世界平和記念聖堂(広島市中区)で開かれた対談の実行委員を務めた。聖堂の建設を発案した愛宮(えのみや)真備(フーゴ・ラサール)神父と、設計者の村野藤吾氏が語り合った
 54年にできた聖堂は、被爆地広島の復興の中でも重要な存在。原爆犠牲者を悼み、世界平和を祈る場として造られました。そこを会場にした対談は、市民を含めて約700人が集まった画期的な催しでした。

 実は、村野さんは長く表立った発言を控えていた。評論家の批判が要因です。丹下健三さんを戦後日本の公共建築設計の旗頭とする一方で、村野さんは商業建築の建築家だ、と。実際そうではないし、建築論説の浅さだと思う。村野さんも対談の頃は晩年を迎え、自分の考えを広く伝えようとしていたのかもしれない。これで終わらせてはもったいないと、私は聖堂についてもっと調べて本にまとめることにしたんです。

  単著「世界平和記念聖堂」を88年に刊行。設計コンペのいきさつや資材不足による工事の苦難、国内外から集まった寄付金など、聖堂建設を巡る秘話を紹介した
 村野さんに話を聞こうと、大阪の事務所も訪ねました。圧倒的な存在だから、スタッフはみんなぴりぴりしてて。ご本人は話すよりも自分でスケッチを描く方が好きという感じで、手を動かしている。そのデザイン力がすごい。聖堂を見ても、宗教を超えた建物のように感じます。ところが84年11月に亡くなられて、本をお見せできなかったのが本当に残念でした。

  89年1月、あるキリスト教信者から電話を受けた
 聖堂そばに、信者会館やホテル、結婚式場の建設計画が持ち上がっているという話だった。そうなると、聖堂のたたずむ景観が損なわれてしまう。急ぎ、見直しを求める署名を3千人余り集めて申し入れました。

 計画は軌道修正されました。広島の復興過程で生まれた聖堂の景観をどう扱うか。聖堂は2006年、丹下さんが設計した原爆資料館とともに国の重要文化財に指定されましたが、景観が変わっていたら、そうならなかったかもしれません。

(2016年12月21日朝刊掲載)

年別アーカイブ