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連載・特集

『生きて』 都市・建築研究者 石丸紀興さん(1940年~) <14> 地中の広島

被爆地の歴史知る契機

  2000年1~3月、平和記念公園内の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区)の建設に伴う発掘調査に関わった
 原爆資料館(中区)が企画し、当時広島大工学部教授だった私に発掘への協力依頼が来た。調査には、以前から取り組んでいた「重ね図」の研究を生かしました。戦前の地図に現在の地図を重ね、かつての道路や建物の位置を推定していく。平和記念公園は原爆投下まで町並みが広がり、爆心地に近いため壊滅的な被害を受けたエリアですから。

 天神町筋と呼ばれた道路と思われる所にテープを引いて発掘した。瓦やタイルがたくさん出て、うなぎ屋や産婦人科の建物基礎も現れた。私や学生もスコップを持って参加しました。被爆後に家を建てた人もいたけど、公園になるということで本格的な基礎工事などをしなかった。地中があまりかき回されておらず、町並みの跡がある意味、凍結状態で保存されていることが分かりました。

  地層(高さ2・1メートル、幅2・7~1・7メートル)を剥ぎ取り、祈念館内に展示された
 みんなで剝ぎ取ろうとなって。もともとの海底から、埋め立てをして江戸期や明治、大正、昭和初期に続く人々の営みが層状に積み重なっていた。そこに、赤黒く焼けた被爆層が見える。広島の都市の成り立ちを断面で捉える中で、原爆が何をもたらしたのかを重層的に受け止めることができるのではないでしょうか。

  昨年11月から、市が原爆資料館本館の敷地を発掘調査した。近く同館の免震工事に入るものの、今後さらに平和記念公園内の別地点を発掘し、4年後の被爆75年に保存、公開を検討している
 資料館敷地の発掘でも、食器をはじめとする生活品のほか、被爆まであった建物の基礎、銭湯の風呂釜や煙道などがごそっと出てきました。

 平和記念公園は特別な場所です。資料館内での展示の工夫を凝らしているけど、地下の遺構そのものも展示につながる重要な情報資料。立体的に残し、強化ガラスを張って公開すれば、ここがどういう場所か、どんな営みがあったのかをもっと実感できると思います。

(2016年12月24日朝刊掲載)

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