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被爆直後の子ども救援 「比治山迷子収容所」の記録発見 

広島市8日開設 過酷な状況下 引き渡しや配給

 1945年8月6日の被爆直後、広島市が設けた「比治山迷子収容所」を巡る記録が見つかった。開設は8日で、保護者が行方不明となった乳幼児・児童ら91人を収容し、32人が引き取られたが、9人が月末までに死去していた。健在児も「恐怖心去ラズ…」。原爆がもたらした過酷な状況や、未曽有の事態からの孤児救援の始まりが浮かび上がる。(西本雅実)

 一連の経緯は、現南区の比治山小が受け継ぐ「昭和二十年度日誌 広島市比治山国民学校」や当時、社会課長だった矢吹憲道氏(83年に80歳で死去)の遺族が市公文書館に寄せた資料で記録されていた。

 「八日午後四時 市収入役黒瀬(斉)氏孤児連行 迷子収容所開設サル」(日誌)。爆心地の南東約2・8キロ、焼失を免れた木造校舎と講堂には直後から負傷者が殺到し、県が布告した救護所の一つにもなった。9日「罹災(りさい)患者以前多数呻吟(しんぎん)ス 孤児収容所モ(略)二十四名トナル」。

 出勤職員らの手記などによると、石田正己校長=当時(45)=は学徒動員された次男が行方不明となったが泊まり込んで指揮し、女性教員は乳飲み子に自らの胸を吸わせて助けた。

 12日に「婦人会勤労奉仕開始」、終戦の15日に「諸物資ノ配給」、18日に「保母来所ス」と混乱が続くなかで態勢を整えていた。

 矢吹氏が残した「収容所概要」は8月末までの動きを記述。0~5歳は40人、6~12歳47人、13歳以上4人を収容し、焼け残った市庁舎や福屋、広島駅などに名簿を掲示。ラジオ放送で呼び掛けもした。18人が親に、14人が親族などに引き取られた。

 死去の9人は「強度ノ下痢症状ヲ起(おこ)し衰弱死亡」と放射線急性障害に言及。さらに「現存迷子モ」「発育不良ナリ」と心身の深い傷を挙げ、天井が破壊された校舎は降雨になると「困窮甚(はなはだ)シキ」とも記している。

 「概要」は、昭和天皇が派遣した永積寅彦侍従の広島視察を控えて作成されていた。侍従は9月3日に収容所も訪れ、市が提出した「言上書」(宮内庁宮内公文書館蔵)の下書きも「矢吹資料」から見つかった。

 被爆した末に肉親を失う子をいち早く救援した「迷子収容所」は、「広島県戦災誌」(88年刊)で「8月10日開設」とされるなど不明な点があった。

 引き取り手が現れなかった16人は46年2月、山下義信氏が五日市町(現佐伯区)で前年末に設けた広島戦災児育成所(53年市に移管)に移り、迷子収容所は閉じられた。

救済の「始まり」

 広島市公文書館・中川利国館長の話 旧厚生省が1948年にまとめた「全国孤児一斉調査」で広島県は5975人と最多であり、その要因は原爆のためだ。見つかった記録を付き合わせると、原爆孤児救済の始まりといえる迷子収容所の重要性が分かる。春に刊行する「被爆70年史」で生かしたい。

(2017年1月4日朝刊掲載)

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