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社説・コラム

『私の学び』 市民グループ「アジアの花たば」代表・小川順子さん

戦争を省み多文化共生

 1980年代に広島大の留学生を支援し始めて以来、国際協力に関わってきた。主婦の地道な活動だ。戦争の歴史を踏まえて「アジアの国と仲良くする」という、多文化共生への意識が常にある。

 幼い頃、海軍の軍人だった父から聞いた体験が根っこにある。「東南アジアの国で陸軍兵が現地住民を股裂きにして殺すのを見た。日本はアジアの国にひどいことをした」

 ある時、インドネシアの留学生から、日本兵が現地住民を銃剣で刺す挿絵の載った教科書を見せられ、父の話を思い出した。そんな日本を選び苦学するアジア各国からの留学生に、精いっぱいのことをしようと誓った。生活上の悩みを聞き中古の電化製品を探し回るといった細かいことまで。わが子のように接した。

 96年、活動を広げる機会を得た。偶然見掛けたモンゴルの草原火災を伝えるテレビ映像。大やけどで両足を切断された少年の頬を一筋の涙が流れていた。長男の姿と重なった。首都ウランバートルに飛び、病院を訪ね回ると奇跡的にも少年を捜し出せた。賛同者を募り、中区グレイス(大田市)による義足製作につながった。

 この渡航が教育支援の端緒にもなった。当時はソ連崩壊のあおりで経済危機に陥り、首都にホームレスの子が急増していた。モンゴルの政府機関に掛け合って貧困家庭の子を紹介してもらい、計5人の学費を継続支援した。やはり善意の寄付が支えになった。

 大学へ進学し、東京の企業で元気に働いている子がいる一方、挫折の末、アルコール依存症になった少年も。15年間、毎年会いに行って成長を見届け、区切りをつけた。

 70歳を超えた今、地元広島での「終活」をしている。中国残留日本人孤児と家族でつくる「中国帰国者の会」の支援だ。集会の手伝いをしたり、残留孤児の苦難を伝える朗読劇を演じたりしている。

 残留孤児は最大の戦争被害者で同じ地域の住民だ。言葉の壁と高齢化で暮らしは大変。家族も地域から孤立しがち。境遇の歴史的背景を知り、共に生きていくため、関心を少しでも広げたい。

 8年前、34歳だった長男が難病で苦しんだ末、不慮の事故で突然旅立った。次に会えた時、「母さん頑張ったね」と言ってもらえるだけのことをする。それも心の支えだ。(聞き手は金崎由美)

おがわ・じゅんこ
 1944年、岩国市生まれ。観音高卒。96年、「アジアの花たば」を設立。2009年、モンゴル大統領から友好勲章を受ける。広島市多文化共生市民会議委員、広島平和文化センター理事などを務める。

(2017年1月23日朝刊掲載)

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