『記憶を受け継ぐ』 山口奎子さん―頭に大けが 癒えぬ傷痕
17年2月20日
山口奎子(やまぐち・けいこ)さん(86)=広島市南区
納屋に間借り。苦しい日々でも前向き
原爆で後頭部に大けがをした山口(旧姓上野)奎子さん(86)。戦後も傷が痛み、気分が優れない日が続きました。それでも「私は運がええ方。お母さんが生きとったけえ」と言います。常に前向きに、努めて明るく生きてきました。
当時は広島市立第一高等女学校(市女、現舟入高)4年の15歳。3年の時は家から学校にミシンを持って行って軍服や戦地での蚊帳(かや)を縫っていました。4年になると日本製鋼所広島工場(現南区)で、旋盤(せんばん)を使って鉄砲(てっぽう)の弾(たま)を作っていました。
1945年8月6日は、電力不足による「電気休み」でした。土手町(現中区稲荷(いなり)町、爆心地から約1・5キロ)の自宅で、母幹枝さんが作っておいてくれたおからのコロッケを持って海に行こうと、台所に腰掛(こしか)けた瞬間(しゅんかん)。上からバッと光ったと同時にドガーンと大きな音がして真っ暗になりました。何かいろんな物が落ちてきます。死にものぐるいで外に出ました。
だんだん明るくなると、家が壊(こわ)れているのが分かりました。それとともに、大きな血の塊(かたまり)がぼたっ、ぼたっと右耳の後ろから落ちてくるのに気付きました。手を当てると中指がずぼっと入るほど。「もう死ぬるわ。死ぬ前にお母さんに会いたい」。養護教諭(きょうゆ)として母が勤めていた段原国民学校(現段原小)に向けて2、3歩行きかけたところで、母が戻(もど)ってきました。山口さんを見てニコッと笑った母。「あの顔をよう忘れん」と振(ふ)り返(かえ)ります。
母に包帯を巻いてもらい、一緒(いっしょ)に逃(に)げました。多聞院から比治山に上がって、比治山国民学校(現比治山小)の前を通り、仁保(現南区)の親戚(しんせき)宅へ。その日は近くに住む、母の同僚(どうりょう)宅に泊(と)めてもらいました。
翌朝、芸備線で段原国民学校の児童が集団疎開(そかい)していた県北の山内(やまのうち)地区(現庄原市)に避難(ひなん)。8月末まで過ごしました。頭の傷は赤チンを塗ってもらっただけ。髪の毛が抜け、何年間も気持ち悪い状態が続きました。傷痕も気になり、ずっと髪を長くしています。
広島に戻り、仁保の親戚宅の納屋から学校に通い、翌年3月に卒業しました。11月に妹京子さんが誕生。母が仕事に出ていたため、奎子さんが家事も子守もこなしました。妹はかわいかったのですが、間借りしていた納屋は壁(かべ)が落ちていて寒く、水をくみに井戸(いど)に行くのがつらかった日々。妹のおしめを海に洗いに行くのも恥(は)ずかしい年頃(としごろ)でした。夜、布団の中で「人間、いろんな目に遭うが悪いことばかりじゃない。いつかいいことがあるけえ」と自ら言い聞かせていました。
知人の紹介(しょうかい)で能弘(よしひろ)さんと53年に結婚(けっこん)。夫も被爆者でしたが、特に気にしませんでした。「原爆に遭うたのを隠(かく)すこともない。どうせ調べたら分かること。偏見(へんけん)を持つ者がおかしい」ときっぱり。夫は広島市役所で橋を架(か)ける仕事に長く携(たずさ)わっていました。「広島の復興のお役に立てた」。誇(ほこ)りに思っています。
長男が小学1年の時にPTAでコーラスを始めて60年余り。今も広島合唱同好会に所属し、毎週月曜夜の練習には欠かさず出席。年1回の定期演奏会も楽しみにしています。年2回開いている市女の同期会の世話も生きがいです。
中高生には「勉強して、世界を見てほしい」。相手と話すときに、柔(やわら)らかく接するのも大切、とほほ笑みます。(二井理江)
私たち10代の感想
託された言葉胸に学ぶ
「子どもが兵器を作っている日本はおかしかった」と話す山口さん。「たくさんの知識を身に付けて、平和な世界にしてほしい」との言葉を胸に、子どもを巻(ま)き込(こ)むことになる戦争を二度と起こさないよう、どうやって平和に少しでも近づくことができるのかを、考えたり学んだりしていきたいです。(中2川岸言織)
とっさの決断力が大切
大きな音とともに、いろんな物が上から落ちてくる中、山口さんは無我夢中で外に出ました。僕が山口さんの立場なら、すぐに行動できなかったと思います。あまりにショックで体が固まってしまっていたはずです。いつ何が起こっても、強い決断力を持つことが大切だと教えてくれました。(中2フィリックス・ウォルシュ)
暮らし激変 恐怖感じた
「原爆が投下されて生活が百八十度変わった」との言葉が印象に残りました。けがだけではなく、一瞬(いっしゅん)で家を失い、生活環境(かんきょう)が急に変わると思うと、恐怖(きょうふ)でしかありません。さらに、働く母に代わって炊事(すいじ)や妹の世話までするなんて絶対に私にはできません。あらためて今の生活に感謝したいです。(高1中川碧)
(2017年2月20日朝刊掲載)