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東日本大震災あす6年  調査続ける高橋征仁・山口大教授/仙台で被災 レノファ山口の渡辺選手

 東日本大震災発生から11日で6年になる。山形県出身で避難者の追跡調査を続ける山口大教授と、J1仙台のメンバーだった時に震災を経験し今季からJ2レノファ山口に移った選手に、今伝えたい思いを聞いた。

避難者に優しい社会を

高橋征仁・山口大教授

いじめ・偏見 誤解から

 「自主避難者を理解しない社会の雰囲気が、避難者へのいじめの背景にある」。山口大の高橋征仁教授(52)=社会心理学=は強調する。行政の支援を実際には受けていなくても、原発事故で避難指示区域外から自らの判断で避難した人について「必要ない税金が使われている」という誤解に基づく差別が広がっているとみる。

 高橋教授は2014年、福島県から山形、沖縄県に避難した母親たち計127人と福島の母親477人にアンケートをした。その結果、避難者は、「原発事故直後の政府発表や報道に不自然さを感じた」「チェルノブイリ原発事故を自分から学んだ」という回答を選んだ割合が多かった。

 避難先での周囲の偏見やいじめについて高橋教授は、「自主避難する必要はないのでは」という無理解から生まれる、と指摘。被災地の安全性を訴える国などのキャンペーンもあり、避難者を「過度に神経質」「非科学的で知識不足」だと捉えがちという。

 山形県河北町出身で1993年から山口大に勤務。事故当時、両親は同県で暮らしていた。宮城県内で瓦店を営み、震災後に福島で働いていた50代の義理の弟には移住を勧めたが「親から継いだ仕事でお客さんもいる。自分の安全だけ優先できない」と話したという。弟は15年5月に白血病を発症。半年後に亡くなった。

 原発事故との因果関係は分からないが、身近な人の死は、被災地で死があふれていることを実感させた。「次は自分が避難者になるかもしれない。偏見を持たずに受け入れる社会にしていく必要がある」と呼び掛ける。(折口慎一郎)

忘れまい あの日の光景

レノファ山口の渡辺選手

「多くの人から後押し」

 J2レノファ山口のDF渡辺広大選手(30)は震災当時、J1仙台の選手として仙台市にいた。「車がひっくり返るんじゃないか」と思うほどの激しい揺れ。ホーム開幕戦の前日。練習後、車で海沿いのショッピングモールに向かっていた。

 妻に電話をしたが、つながらない。大渋滞で車も動かない。約1時間走って同市内の自宅に戻った。「津波がぎりぎり来なかった場所だが、もし海沿いだったら…」と振り返る。

 当時、2人の子どもは2歳と生後6カ月。食料を求めてスーパーの行列に並び、まきで火をおこした。「生きるのに必死な日々が1週間くらい続いた」

 クラブは活動休止を余儀なくされ、Jリーグは2011年4月23日まで中断した。震災から2、3週間後、選手たちは、被害が特に大きかった地域へ向かった。スコップで泥をかき出し、避難所のグラウンドでは子どもとボールを蹴った。「子どもが笑顔になると、大人たちも元気になる」と信じていた。

 「サッカーをしてもいいだろうか」。そんな思いに駆られたこともある。被災者からは逆に「元気をもらっている」と声を掛けられた。スタジアムにも、多くのサポーターが集まった。当時の監督の手倉森誠さん(49)は「僕たちは、被災地の『希望の光』」と選手を鼓舞。再開後のシーズンでは、過去最高の4位となった。

 6年目のあの日を仙台から遠い山口で迎える。「多くの人の後押しを受け、今もサッカーを続けられている自分は幸せ。自分の存在で、山口のサポーターにも少しでも被災地のことを思ってもらえればうれしい」と新天地での活躍を誓う。(川村奈菜)

(2017年3月10日朝刊掲載)

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