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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 江種祐司さん―市街地歩き 「地獄」目撃

病床で聞いた音楽に涙。生きようと思った

 「原爆は、命の尊厳を残酷(ざんこく)極まりない手段で奪(うば)った。広島市を流れる川の底にはまだ犠牲(ぎせい)者の骨がある。おびただしい死の上に戦後の広島があるのだと知ってほしい」。公立中の教師を務めた江種祐司さん(89)=広島県府中町=は、17歳のときの強烈な記憶を若い世代に語ってきました。

 福山市出身の江種さんは、寮(りょう)生活を送りながら広島師範学校(現在の広島大教育学部)に通っていました。オペラやクラシック音楽を愛し、音楽教師を夢見ていました。

 しかし本科1年だった1945年当時、授業などありません。宇品(現南区)沖の金輪(かなわ)島にあった野戦船舶本廠(やせんせんぱくほんしょう)という陸軍施設(しせつ)に動員され、船で弾薬などを運んでいました。たたき込まれたのは「月月火水木金金」。週7日働け、という軍歌です。

 あの日の朝も金輪島にいました。控室(ひかえしつ)でお茶を飲んでいると突然、熱が左ほおに刺さりました。目に光が飛び込み、体に大きな圧力を感じました。爆心地(ばくしんち)から約6キロ。「外に出ると巨大(きょだい)なきのこ雲。灰が降ってきたが、放射能のことを知るはずもなかった」

 命令を受けて東雲町(現南区)の校舎へ戻り、そこから3人一組で舟入町(現中区)方面にある先生の家へ救援(きゅうえん)に向かうことになりました。

 市街地を通って西へ進む道のりは、まさに地獄(じごく)。「体を『く』の字に曲げ、うごめくように人々が歩いてきた。つぶれた眼球が飛び出た顔。焼けただれ、肩(かた)までずり落ちた頭皮―。生きたまま焼かれていた」

 破裂(はれつ)した水道管から漏(も)れた水で体をぬらし、燃える街を歩きました。現在の中区加古町の付近では、「地面に黒焦げの死体が―と思っていたら水を求める人の腕が伸びてきた。足首をつかまれそうになり蹴(け)飛ばした。まともな精神状態でなかった」。その後、どうやって学校まで戻ったのかも覚えていません。

 翌日から遺体の焼却(しょうきゃく)に駆(か)り出されました。「手首をつかむと、肉が抜ける。胴体(どうたい)に縄(なわ)を巻いて引きずった」。箸(はし)と空き缶を手に、けが人の傷口(きずぐち)に湧いた大量のうじ虫も取りました。

 自らの体にも異変は起きました。福山の実家に戻(もど)ったのは敗戦翌日の8月16日。髪(かみ)が全部抜(ぬ)け、体を起こせなくなりました。

 一筋(ひとすじ)の光となったのが音楽です。床(とこ)に伏(ふ)して2週間ほど後、戦争中は禁止されたクラシックのラジオ放送が流れました。モーツァルトの「フィガロの結婚」に涙があふれました。「大好きな音楽がある。生きていこう」。不思議にも、翌日から体調が少しずつ回復しました。

 戦争中の空白を取り戻すかのように夢中でピアノを練習し、音楽教師に。日本が戦争に突き進んだ時代を繰り返させまいと平和教育にも力を注ぎました。原爆に向き合わざるを得なかったともいえます。両目を原爆白内障(はくないしょう)で手術。血液中の白血球数は通常の半分しかありません。20年前、当時39歳の長男宏治さんをがんで失ったとき「自分の体に焼き付いた放射線(ほうしゃせん)のせいなのか」と考え、苦しみました。

 6年前には福島第1原発事故が起こり、「日本は原爆被害の実態から真の教訓を得ていなかった」と衝撃(しょうげき)を受けました。江種さんは「これでは核兵器も再び使われかねない」と恐れ、若い人に訴えます。「核兵器は、地球上に一発たりともあってはならない」と。(金崎由美)

私たち10代の感想

戦争は授業さえも奪う

 音楽教師を目指していた江種さんは「戦争中、音楽や美術の授業が真っ先になくなった」ことがつらかったそうです。美しく、想像力を育てるものや「戦争の役に立たない」と見なされたものが奪(うば)われたのです。学校で授業を受けることは当たり前でなく、平和だからできるのだと心に留めました。(高3福嶋華奈)

芸術が再起の原動力に

 「音楽には打ちひしがれた人間の魂を呼び起こしてくれる力がある」と話してくれました。被爆から約10日後に被爆の影響で衰弱した江種さんが、再起し人生を切り開く原動力となったのは音楽でした。自分もこれまで音楽に元気付けられてきました。つらいときも芸術を支えにした江種さんのように歩みたいです。(高3鼻岡舞子)

事実を次代に伝えたい

 17歳で被爆した江種さんが記憶する原爆投下直後の光景はあまりに凄惨(せいさん)です。救援(きゅうえん)に向かう途中、黒焦げの死体にしか見えない人に足首をつかまれそうになった、など思わず耳をふさぎたくなる証言ばかりでした。若い人たちもこの事実としっかり向き合い、さらに次世代に伝えて、と言われたような思いです。(高3谷口信乃)

(2017年3月20日朝刊掲載)

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