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日本被団協事務局次長演説 全文

 日本被団協の藤森俊希事務局次長が27日に国連本部で行った演説全文は次の通り。

 議長および会議参加の皆さん、発言の機会を与えていただき感謝致します。私は、日本被団協事務局次長の藤森俊希と申します。1945年8月6日、米軍が広島に投下した原爆に被爆した一人です。

 戦後11年目にして日本被団協を結成した被爆者は「再び被爆者をつくるな」と国内外に訴え続けてまいりました。被爆者のこの訴えが条約に盛り込まれ、世界が核兵器廃絶への力強い前進をすることを希望致します。

 被爆した時、私は生後1年4カ月の幼児でした。当時のわが家は祖父、父母、6人の姉、2人の兄と私、12人の大家族でした。空襲を避けるため広島市から避難した2人の姉、2人の兄以外、広島市に残った8人全員が被爆しました。

 13歳で女学校1年だった4番目の姉は、爆心地から400メートル辺りで建物疎開に動員されていて、放射線、熱線、爆風の直爆を受け、私の姉を含む先生、生徒676人全員が命を落としました。広島市全体では中学1、2年に当たる学徒8400人が動員されて、うち6300人が命を亡くしたとされています。

 私は当日体調を崩し、母に背負われ病院に行く途中、爆心から2・3キロの地点で母と共に被爆しました。偶然、親子と爆心の間に2階建ての民家があり、熱線を直接受けることは避けられましたけど、爆風で土手の下まで吹き飛ばされ、気が付いて母は、私を抱いて近くの牛田山に逃げました。それぞれの出先で被爆した家族は牛田山に逃れてきました。四女が帰ってきません。父、姉、母が、四女の行方を捜すため、動員されたであろう爆心地近くに何日も捜しに出かけました。姉はついに見つからず、遺体も分からないままです。その間、私は、目と鼻と口だけ出して包帯でぐるぐる巻きにされ、やがて死を迎えるとみられていました。その私が奇跡的に生き延び、国連で核兵器廃絶を訴える。被爆者の使命を感じます。

 米軍が広島、長崎に投下した原爆によって、その年の末までに21万人が死亡しました。きのこ雲の下で繰り広げられた生き地獄も今日3月27日まで2万6166日間、被爆者を苦しめ続けています。

 同じ地獄をどの国の誰にも絶対再現してはならない。

 私の母は、毎年8月6日、子どもを集め、涙を流しながら体験を話しました。つらい思いをしてなぜ話すのか、母に尋ねたことがあります。

 母は一言「あんたらを同じ目に遭わせとうないからじゃ」と言いました。

 母の涙は、生き地獄を再現してはならないという母性の叫びだったのだと思います。

 ノルウェー、メキシコ、オーストリアで開かれた3回の国際会議、核拡散防止条約(NPT)再検討会議準備委員会、国連総会第1委員会での共同声明など、粘り強い議論、声明が導き出した結論は

 「意図的であれ偶発であれ核爆発が起これば、被害は国境を超えて広がり」

 「どの国、どの国際機関も救援のすべを持たず」

 「核兵器不使用が人類の利益であり」

 「核兵器不使用を保証できるのは核兵器廃絶以外にあり得ない」

 ということでした。

 多くの被爆者が、万感の思いをもって受け止めました。

 核兵器国と同盟国が核兵器廃絶の条約を作ることに反対しています。世界で唯一の戦争被爆国日本の政府は、この会議の実行を盛り込んだ決議に反対しました。

 被爆者で日本国民である私は心が裂ける思いで本日を迎えています。

 しかし、決して落胆はしていません。

 会議参加の各国代表、国際機関、市民社会の代表が核兵器を禁止し廃絶する法的拘束力のある条約を作るために力を注いでいるからであります。

 被爆者は昨年4月、全ての国が核兵器を禁止し廃絶する条約を結ぶことを求める国際署名を始めました。世界各国に呼び掛け、昨年10月、1回目の署名を56万余、国連総会第1委員会議長に届けました。現在、累計で172万余の署名が集まっています。億単位の署名を目標に2020年まで続けます。

 法的拘束力のある条約を成立させ、発効させるためにも力を尽くしましょう。

 ご清聴ありがとうございました。

(2017年3月29日朝刊掲載)

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