×

ニュース

「父と被爆者救護」72年ぶりの記憶 韓国の朴さん広島訪問

 韓国京畿道に住む朴煥文(パク・ファンムン)さん(81)が29日、原爆負傷者の救護に亡き父たちと当たった広島市安佐北区可部の品窮(ほんぐう)寺を72年ぶりに訪ね、自らの記憶を確かめた。被爆者健康手帳の取得に向けて協力する「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」広島支部(中谷悦子支部長)のメンバーに当時の様子も詳しく証言した。

 可部国民学校(現可部小)4年生だった朴さんは、原爆投下の1945年8月6日に救護所となった同寺で、鋳物工場勤めの父に伴われて7日から救護を手伝ったという。住まいは寺の近くにあった。

 「ひどいやけどの人たちが本堂から廊下まで横たわっていました。男性医師が消毒薬を塗る時にけが人の腕を持ったり、水を飲ませたりした。にぎり飯も配った」。現存する本堂に上がると、自らの救護活動を鮮明に語った。

 市の「広島原爆戦災誌」(71年刊)や前住職夫人の手記によると、品窮寺には計108人が収容され、8月末まで救護所としての活動が続いた。死者は近くの河原で火葬された。

 朴さんは、境内の松の根元で息を引き取った女児をしのびながら「手押し車で遺体を何度も運びました」と記憶を掘り起こした。

 旧可部町生まれの朴さんは45年10月、父の郷里である慶尚南道陜川郡に家族5人で帰国し、ソウルで国家公務員となった。韓国原爆被害者協会を通じて2012年に朴さんの救護被爆を知った広島支部が、手帳申請に伴う事実関係をさらに明確にしようと招いた。

 中谷支部長は「救護状況を知る住民の証言からも裏付けを進め、被爆者として認められるよう支援したい」と話している。広島支部は、在韓被爆者で手帳未取得者の申請に協力している。(西本雅実)

(2017年3月30日朝刊掲載)

年別アーカイブ