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被爆時計 家族の記憶刻む 地中で難逃れた「形見」

 広島原爆の爆心地そばで焼失を免れた柱時計が、広島市中区薬研堀の「筒井時計店」で今も時を刻んでいる。当時、材木町(中区中島町)にあった時計店は壊滅し、3人が被爆死した。残ったのは、空襲を避けるため庭先に埋めていた柱時計だけ。「家族の生きた証し」。父から受け継いだ店主の筒井昭夫さん(63)は語る。(田中美千子)

 柱時計は高さ約2メートル。正面のガラスには「標準時」と書かれ、文字盤には「TAISEN」の文字。大阪市の時計会社が製造し、大正末期から戦前に出回った品とみられる。

 購入したのは1997年に83歳で亡くなった父勝美さん。76年前、現在の平和記念公園(中区)の原爆慰霊碑そばに店を構えた際、「店の看板に」と奮発したという。

 開店時、勝美さんは義父母、妻の4人家族。その後、2人の子どもを授かった。が、戦争と原爆が家族を引き裂く。勝美さんはフィリピンから復員後、義父と妻、3歳の長男が被爆死したことを知った。疎開先の長女と、長女を訪ねていた義母は無事だった。

 店は爆心地から約300メートル南西の位置。柱時計は勝美さんが戦地に赴く前、毛布にくるんで埋めた。焼け跡を掘り返すと柱時計は無事だった。折れた振り子の棒をつなぐと再び動き始めた。

 「父が大事に手入れしていた。家族の思い出が詰まっていたからでしょう」と昭夫さん。

 勝美さんは47年に再婚し、薬研堀で時計店を再開した。翌年生まれた昭夫さんにとっても、この時計は「兄たちの唯一の形見」。義理の祖父と兄の遺骨は見つからなかった。「原爆の悲惨さを伝える時計。お客さんにも見てほしい」。約25年前、店舗と同じ建物の居宅部分から店頭へ移した。

 昭夫さんは6日、原爆慰霊碑と一家の墓を参る。「まだ立派に動いていると伝えます」

(2012年8月4日朝刊掲載)

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