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城下町誕生期の痕跡も 広島の原爆資料館本館敷地の発掘終了 350年超す変遷に迫る

 広島市が原爆資料館本館(中区)の敷地で進めた発掘調査が、3月末で終了した。1年5カ月に及ぶ調査で、原爆によって壊滅した町並み跡が出土。その下層からは、広島城下町の誕生期までさかのぼる営みの痕跡も見つかった。これまでに城下町エリアの本格的な発掘はなく、350年を超す都市の変遷に迫る貴重なデータが得られている。(林淳一郎)

 発掘は、資料館の免震工事に先立ち2015年11月に始まった。昨年5月のオバマ米大統領(当時)の広島訪問などによる中断を挟み、市文化財団が約2200平方メートルを調べた。

 一帯は戦前、理髪店や米穀店、銭湯、寺院が立ち並ぶ繁華街の一角だった。約400メートル北東の上空で原爆がさく裂。発掘では、赤黒く焼けた土の層や建物基礎、アスファルト舗装された道路のほか、溶けた瓦や牛乳瓶、焦げたしゃもじなど、「あの日」まであった町の姿や暮らしの痕跡が相次いで現れた。

 それと並んで重視されるのが、時代をさらにさかのぼり、広島の街の歩みを考古学の視点で調査、確認できたことだ。

 資料館本館は、建築家の丹下健三が設計し、被爆10年後の1955年に開館した。コンクリートの柱20本が建物を支える高床式の構造。柱の基礎部分などを除いて地中の状態がよく保存され、平和記念公園内のため、高度経済成長期の開発とも無縁だった。「被爆前後にとどまらず、城下町の頃を含めた広島の歴史が重層的に刻まれていた」と同財団の田村規充主任学芸員は話す。

 広島の街は、太田川河口のデルタに築かれた。発展の礎は、毛利氏が1589年に着手した広島城築城だ。城下町は江戸期、藩主の福島氏や浅野氏の干拓などでさらに拡大したとされる。しかし、築城当時の城下の実態は、文献が限られて明らかになっていない。市や県の発掘調査も、広島城内(中区)を中心に進められてきた。

 こうした中、今回の発掘で東西30~40メートルにわたって出土した石垣は注目される。築城期の90年創建と伝わる旧誓願寺(現在は西区三滝本町)の初期の堀跡とみられている。江戸後期の広島藩の地誌「知新集」に収められた同寺の縁起には、「アシの林を刈り、深い泥土を埋め…」と記述され、地盤の緩いデルタでの建立は労苦を伴ったようだ。

 「低湿地とはいえ、開発可能な土地も広がっていたのでは」。同財団の調査指導委員を務める県立広島大の鈴木康之教授はそう捉える。出土した陶磁器の中には、16世紀代とみられる備前焼なども。「城下町が整う以前から、太田川河口の要衝として集落や港があったのかもしれない。発掘データは、時代ごとの景観を復元する上でも重要な手掛かりになる」と指摘する。

 発掘では、旧浄圓(じょうえん)寺(中区中島町内で南に移転)のエリアから、江戸期の土葬墓も300基以上が出土。このほか、明治期以降の下水管網や針製造の作業場跡、地盤沈下を防ぐため石垣の下に木材を据えた水路跡などの遺構も確認された。

 市は今後、専用コンテナで700箱を超す出土品や遺構の計測データなどを精査し、報告書にまとめる計画だ。鈴木教授は「いずれも広島にとってかけがえのない文化財。城下町から軍都へ、さらに原爆の甚大な被害から復興を果たした都市の歩みを再認識させてくれる」と調査の意義を強調する。

(2017年4月12日朝刊掲載)

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