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闘病のサダコ 克明に 主治医の治療ノート 遺族寄託へ

 広島市中区の平和記念公園にある「原爆の子の像」のモデルで、被爆10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さんの闘病の記録を、主治医が保管していた。最期の247日間、懸命に生きようとした禎子さんと、原爆後障害に立ち向かった広島の医師の姿が浮かび上がる。主治医の遺族は記録をまとめたノートを原爆資料館(中区)に寄託する意向でいる。(田中美千子)

 主治医は2月、90歳で亡くなった沼田丈治さん。1959年に安佐南区で開業する前、広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)の小児科副部長を務めていた。

 茶色く変色した大学ノートの表紙には「Leukemia(白血病)」。禎子さんたち担当患者11人の診療記録をまとめていた。

 禎子さんの記録は計8ページ。入院した55年2月21日から10月25日に亡くなるまでの間、白血球数や体温、投薬時期をグラフ化。食欲の有無や出血状態なども丹念に記している。

 妻千春さん(82)は「夫は、禎子さんはとても我慢強い子だと言っていた」と振り返る。父と同じ小児科医になった長女、児玉真理子さん(60)は「カルテのデータを自分なりにまとめ直したもの」とみる。ノートは他に4冊あり、別の患者の記録や治療薬の特徴などもつづられている。

 沼田さんが56年に学会で発表した論文もノートと一緒にあった。論文は禎子さんが甲状腺がんを併発していたことを報告した内容だ。論文によると当時、国内で子どもの甲状腺がんの症例はほとんどなかった。米国では乳幼児期にエックス線検査を受けた後に発症した事例があった。沼田さんは禎子さんを通じ被爆と甲状腺がんの関連をも問いただした。

 沼田さん自身、東京の医大から帰省中、祇園町(安佐南区)の自宅で被爆した。建物疎開中だった3歳下の妹は大やけどを負い、2日後に息を引き取ったという。真理子さんは「妹をみとった経験が父を研究に駆り立てたのでは」と推し量る。

 原爆資料館の前田耕一郎館長は「大変貴重な資料。ひたむきな医師の姿を感じる」。禎子さんの兄雅弘さん(71)=福岡県=も「妹の生きた証し。大事に保管してほしい」と話している。

(2012年8月6日朝刊掲載)

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