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社説・コラム

『私の学び』 ピースボランティア・岡本忠さん

痛みを共感する大切さ

 原爆資料館(広島市中区)の展示品を解説したり、平和記念公園にある慰霊碑を案内したりするピースボランティアとして2008年から活動している。勤務先を60歳で退職後、警備員として再就職したことが思わぬ第二の人生の起点となった。

 配置されたのがほかでもない、原爆資料館だった。館内を巡回中、緑のジャンパー姿で見学者を熱心に案内している人たちと頻繁に擦れ違った。興味が湧いてきた。

 自分は被爆者、という意識が還暦を過ぎて呼び覚まされたのだと思う。

 1歳5カ月の時、爆心地から1・5キロの楠町(現西区)の自宅で被爆した。家は倒壊し、後頭部や背中、左腕をけがした。母親に抱かれ、外にはい出た後に家は炎に包まれたという。逃げるのが遅ければ生きていなかったろう。腕の傷口にはうじが湧いたと聞く。いまも、指を伸ばそうとすると皮膚が引きつる。

 脳裏に焼き付いた記憶はないのに、原爆の痕跡は体に深く刻まれている。苦しんだ時期もあった。高校生の時、暑くても制服の長袖シャツをまくり上げることができなかった。結婚して子や孫が生まれると「健康でいてほしい」と一抹の不安も覚えた。

 とはいえ多忙な現役世代の間は、自らの被爆状況について進んで知ろうとはしなかった。資料館での転機を経て、記憶なき被爆者として何ができるのか、自問し始めた。

 13年夏、一念発起して非政府組織(NGO)ピースボートが主催する世界一周の旅に参加した。寄港先には紛争で疲弊した国もあった。ヒロシマを一方的に語るのではなく、相手の体験に耳を傾け、痛みを共感する大切さに気付いた。ポーランドのアウシュビッツ強制収容所では「死者数などの大きな数字の知識だけでは駄目」と言われた。命を奪われた一人一人の人生が見学者に伝わってこそ、と思った。

 証言活動の幅を広げようとことし4月には広島市の「被爆体験伝承者」の委嘱も受けた。被爆者の梶本淑子さん(西区)の体験を語り伝える活動だ。いま自分は、被爆者であると同時に、壮絶な体験を受け継ぐ一人でもある。

 資料館は改装工事が進み、最先端の映像技術を駆使した東館がオープンした。自分たちの今後の役割が見えてこない不安はある。しかし、人間の痛みを伝える、という心掛けは変わらない。(聞き手は金崎由美)

おかもと・ただし
 1944年、広島市西区生まれ。崇徳高、大阪工業大卒。2004年に広島県農業信用基金協会を定年退職後、研修期間を経て08年から原爆資料館のピースボランティア。安佐南区で妻と2人暮らし。

(2017年5月1日朝刊掲載)

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