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社説・コラム

『言』 被災体験の継承 「痛み」忘れたら繰り返す

◆フォトジャーナリスト・小原一真さん

 広島市内の画廊で先ごろ、フォトジャーナリスト小原一真さん(31)の写真展「沈黙ノ歴史」が催された。戦時中の大空襲で両親を亡くした、あるいは全身にやけどを負ったり片足を奪われたりした被災者が写る。傷痕を隠し、忍ぶように戦後を生きてきた。その痛みこそ「私たちの世代が継承すべきものでは」と問い掛ける小原さんの平和観を聞いた。(聞き手は論説委員・石丸賢、写真・山崎亮)

  ―「沈黙ノ歴史」は最初、最高裁の判事に見せる証拠として写真集にしたそうですね。
 はい。国の賠償責任をただす大阪空襲訴訟が1年以上、最高裁の判決待ちとなっている時に私が取材に入ったもので。

  ―傷痕をよく撮らせてもらえましたね。
 最初は拒まれました。「他人に見せたことはない」「自分の醜い部分だから」と。何度も通い、言葉を交わすうち、原告団代表の安野輝子さんが「判事に見せるためなら」と受け止めてくれました。健常者であろう判事が傷も見ずに、私らの痛みや苦しみを分かってもらえるんだろうかと思い至ったそうです。裁判は結局、負けましたが。

  ―安野さんは、空襲で左脚の膝から下を失った人ですね。
 そうです。小学校の時の学級写真は、安野さんが膝の辺りで折り曲げ、スカートから下が目に入らないようにしていました。松葉づえを、自分で塗りつぶし、消した写真もありました。そうした物を通し、戦争を知らない私にも長年の「痛み」が伝わってきたんです。

  ―作品に添えたインタビューの文章も胸に刺さりました。孤児となった別の人は親類宅を転々とするうち、顔色ばかりうかがうようになった話だとか。
 救済されるどころか、学校ではいじめに遭い、就職先でも偏見にさらされるなど、どの人も自分を卑下するように仕向けられてきた。「見えない」存在として押し込められ続けてきたんです。周りはしかし、わが身に降りかからない限り、関心を向けない。寛容さに欠ける社会の風潮は気掛かりです。

  ―フォトジャーナリズムの世界に入ったのは、東日本大震災の時だそうですね。
 救援物資を集め、親友の安否確認に回りました。当時働いていた関西では、ぴんとこない人も周りに多く、認識の落差を埋めるために写真で伝えようと撮り始めたんです。

  ―原発事故の復旧に当たる作業員やその家族をモチーフにしたのも、その延長ですか。
 人のつながりから、さまざまな問題が見えてきた。存在さえ見えなくさせようとする理不尽は許せません。公的な支えを受けることなく、社会の片隅で生きてきた空襲被災者の姿は、放射線被害を気遣いつつも声を上げにくい環境に置かれる原発事故の被害者にダブります。

  ―世界報道写真コンテスト2016で部門賞を受けたのも、チェルノブイリの作品でした。重い取材テーマばかりですね。
 中学の時に生徒会の代表として広島市の8・6式典に参加し、被爆者の体験談を聞いたことが問題意識の根っこにあります。大学の推薦入試では、小論文のテーマが「戦争をなくすことは可能か」でした。本や写真集を片っ端から読み、劣化ウラン弾の被害として写された無脳症の子どもの姿に衝撃を受け、写真の力も知りました。

  ―なくせますか、戦争は。
 災いは忘れたころにやってくると言いますよね。それは、その痛みを忘れるからです。原爆にしても、空襲にしても、自分の痛みとして感じられなくなったころに、戦争がやってくると思えてなりません。

  ―忘却を防ぐ「継承」は被爆地が抱える課題でもあります。
 チェルノブイリの事故さえ、ホラー映画や廃虚ゲームの舞台として親しんできたのが私たちの世代です。伝え方はよく考えるべきです。安野さんの傷痕にしても、例の折り曲げられた写真に加え、人目を気にして常にこうもり傘を松葉づえ代わりにしていたり、年に何回か調整しても義足と接する部分に血がにじんだりする様子に接する中で、私自身は「痛み」に近づけました。自分たちなりの継承の仕方を今、模索しています。

おばら・かずま
 盛岡市生まれ。宇都宮大国際学部を卒業後、金融会社勤務を経て15年12月、ロンドン芸術大大学院修士課程を修了。12年春に東日本大震災の写真集「リセット」、15年秋に大阪空襲被災者の写真集「サイレント・ヒストリー」をいずれも欧州の出版社から発行。この夏、広島市内で講演や手製本のワークショップを予定。大阪府在住。

(2017年5月17日朝刊掲載)

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