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被爆調査 全力で42年間 森重昭氏に日本記者クラブ特別賞

捕虜の遺族に事実知らせたい

 優れたジャーナリズム活動に贈られる「日本記者クラブ賞」の特別賞を、歴史研究家の森重昭氏(80)=広島市西区=が受賞した。日本記者クラブ(東京都千代田区)が開いた授賞式や記念講演会で森氏は、被爆死した米兵捕虜の実態調査に取り組んだきっかけや思い、自らの被爆体験などについて語った。要旨は次の通り。(野崎建一郎)

 私は、己斐国民学校3年生だった8歳の時に、今の広島市西区で被爆した。爆心地から約2・5キロの橋の上におり、水草が茂る水深約30センチの川の中に吹っ飛ばされた。幸い気絶しなかったので助かった。その後に黒い雨が降り、川の水かさがあっという間に1メートルくらい上がった。すさまじい雨で、雨粒に当たると痛かったのが印象に残っている。

つらいのは一緒

 学校の校庭では毎日、亡くなった被爆者が焼かれた。1カ月間くらい遺体が焼かれただろうか。当時、大人が「2万人の人を焼いた」と話していたのを覚えている。一体どれくらいの人が焼かれたのか、正確に調べようと思ったのが被爆調査を始めたきっかけの一つだ。楽器会社の社員だった38歳から始めた。

 調査では国内外の多くの人に話を聞き、いろんな資料に当たった。今は80歳だから42年間、全精力を懸けてやってきた。広島で被爆した米兵捕虜については、善意の協力もあり、12人を割り出した。その後、長崎で被爆死した英国人、オランダ人の連合国軍捕虜計4人の身元も突き止めた。

 自分に利益があるわけではないが、外国人捕虜の遺族に事実を知らせてあげたいと思って一生懸命調べた。家族を失ってつらいのは、日本人も外国人も一緒だと思ったからだ。プロのジャーナリストではない素人の私が1人でやってきた調査に対し、このような賞を頂き、うれしい。

「時の人」のお礼

 広島を訪問した米国のオバマ大統領(当時)に、献花式へ招いてもらったこともうれしかった。演説で大統領は、亡くなった米兵捕虜についても話してくれた。スピーチ後に私の前に来てくれ、私は涙が出た。涙を流した私を見て、大統領は私の背中に手を回して引き寄せてくれた。

 大統領のおかげで私は「時の人」になった。なんとかそのお礼をしたい。米国のためでなく、日本のためでもなく、全人類のためにやりたいと考えている。がんになる可能性が増すのかどうかなど、被爆の影響についてもっと勉強して、伝えていきたいと考えている。

(2017年6月7日セレクト掲載)

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