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伝えたい被爆 筆進め3年 三原の沼隈さん 72年前の記憶たどる

 三原市西町の沼隈眞澄さん(89)が、自身の被爆体験をまとめた手記「被爆に学ぶ」を書いている。積極的に体験を伝えることは少なかったが、「年齢もあり、いま原爆の恐ろしさを書き残さなければならない」と、3年前から少しずつ筆を進めている。(山本庸平)

 元中学教員の沼隈さんは同市生まれ。1942年、広島市西区の旧制崇徳中(現崇徳中・高)に進学。45年8月6日、爆心地から約2キロの校内の寄宿舎にいて、爆風で崩れた建物の下敷きになった。

 手記によると、自力で脱出後、火の手が上がるまちを「人の身体をまたいで」歩いた。避難した教師宅では、下級生が「オカアチャン、水チョウダイ」と叫んで亡くなった。自身も大けがで身動きできない。うまく開けられない目から涙が出たと、切々と訴える。

 約40年前に1度だけ体験記を書いた。今回、書き始めたきっかけは2014年、同じ校内で被爆した尾道市の男性との出会いだ。男性と話すうちに、自身の薄らいだ記憶をたどるようになった。

 前回の体験記では原爆投下直後、強烈な光から自力で体を背けたとした。しかし、男性との話で実際は爆風で建物ごと吹き飛ばされたのだと認識が変わった。「原爆の脅威をきちんと伝えられていなかった」

 昨年の米寿記念に冊子にしようとしたが、今も書き続ける。400字詰め原稿用紙で千枚を超えた。沼隈さんは「72年前の事実を後世に残すことで、兵隊も武器も要らない社会になってほしい」と願う。

(2017年7月5日朝刊掲載)

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