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反核 ハンガリー共感 広島・梶本さんの体験聞く会 現地リポート

 広島市が6月から5カ月間、長崎市とともにハンガリーの首都ブダペストで開催している「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」。この原爆展に合わせ、広島市西区の被爆者、梶本淑子さん(86)が6月、若者たちに被爆体験を話した。被爆体験を聞く会の実現に尽力したハンガリー在住の渡辺薫さんと内川かずみさんにリポートを寄せてもらった。

 恨みを抱いていては前に進めない―。梶本淑子さん86歳。今から72年前、14歳の時に広島で被爆した体験を伝える証言活動を続けていらっしゃる梶本さんが話された言葉が今も耳に残ります。

 初めて「被爆証言」と聞いたとき、思い浮かべたのは小学生のときに読んだ「はだしのゲン」の信じがたく、恐ろしい描写でした。昔、遠い所で起きた恐ろしい惨事という印象が強く、歴史で勉強したこととはいえ、今の自分と結び付けて考えることなどできませんでした。今回、梶本さんのお話を聞くまでは…。

■300人以上参加

 ブダペストのカーロリ大学は、これまでに2回、広島市の原爆資料館とインターネットのテレビ電話で結び、被爆者のお話をうかがうウェブ会議を実施しました。そして今回、ブダペストの「岩の病院・核の避難所博物館」で「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」が開催されたのを機に、カーロリ大学とエトヴェシュ・ロラーンド大学に梶本さんをお迎えして被爆体験の証言講話会を開くことになったのです。

 講話会の計画を公開した直後から、参加希望のメールが毎日のように届きました。そして両大学で開かれた2日間の講話会には中高生や大学生、一般の人など計300人以上が参加し、ハンガリーの人たちの関心の高さがうかがえました。

 梶本さんの約80分にわたる証言を聞き、参加者はきのこ雲の下で何が起こっていたのかを知りました。当時の様子を固唾(かたず)をのんで聞き入り、想像しました。原爆投下前の広島の様子、投下直後の変わり果てた姿、殺りくの道具以外の何ものでもない原爆が罪のない人々の頭上でさく裂する恐ろしさ、言い表せない痛みを一緒に感じました。さらに、街の復興が進んでいく中でいわれない差別を受ける被爆者の苦しみを初めて知り、一緒にやりきれなさや怒りを覚えたのです。

 講話会ではさまざまな質問が出ました。大けがをして梶本さんと一緒に避難した友人は、その後どうなったのか。焼け跡を3日間歩き回って梶本さんを探したお父さんは被爆の影響で亡くなる前、梶本さんとどんな話をして、どんな約束を交わしたのか。幼かった弟たちは今、どうしているのか。親の決めた結婚をどう受け止めたのか…。

■ウェブを活用

 参加した人たちは原爆の恐ろしさを歴史という認識にとどめるのではなく、被爆体験を聞くことで、今を力強く生きる被爆者に寄り添い、諦めてはいけないという姿勢に勇気づけられ、かけがえのない命が未来にどう受け継がれているのかということに大きな関心を寄せたのです。

 そして、これは昔話ではなく、今、私たちが生きている現在や世界につながっていて、二度とこのようなことを起こさないためにどのように行動したらいいのかということを一人一人真剣に考えるきっかけになったのです。多くの参加者は家に帰って自分の家族や友人、同僚にこの話を伝え、周囲の人を大切にする心をより強く持つようになったと話してくれました。

 講話会は不当に命を奪われたことに対する「恨み」を助長するものではありません。これからの時代を担う若い世代を中心に、「知識を持って」核兵器に反対でき、平和を願う人たちが増えたことは講話会の大きな収穫だったといえます。

 梶本さんは最後に次のように話しました。「一人一人の被爆体験は違う。証言では話しきれないこと、話せないこと、後になって思い出すこと、経験したはずなのに思い出せないことなどいろいろある。だからこそ1人の話だけでなく、ほかの人たちのさまざまな話を聞いてほしい」。この言葉を忘れず、これからもハンガリーの地でウェブを活用した被爆証言を継続していきます。

 <メモ>渡辺薫さんは山形県生まれ。2007年、筑波大大学院を修了後、ハンガリーに。ブダペストのカーロリ・ガーシュパル・カルヴァン派大学の東洋言語・文化学科で日本語を教える。16年秋から、広島市の原爆資料館と協力して被爆証言のウェブ会議を始めた。

 内川かずみさんは静岡県生まれ。大阪外国語大(現大阪大外国語学部)を卒業後、06年にブダペストのエトヴェシュ・ロラーンド大学(通称ELTE)日本学科で日本語教師となる。同大学院でも学ぶ。児童文学の訳書が7冊、日本で発行されている。

(2017年7月8日セレクト掲載)

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