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安野発電所 中国人強制連行調査25年 年内で和解事業終結 草の根交流継続へ

 太田川上流の山あいに戦争の記憶が刻まれている。広島県安芸太田町の安野発電所建設工事に中国から360人が強制連行され、広島での被爆死も含めて29人が死亡した。市民団体の訪中調査で生存者が初めて確認されて、ことしで25年。工事を請け負った西松建設との和解が2009年に成立し、同社の拠出金を基にした友好基金で個人補償も含めた和解事業が行われてきた。それも年内で終結する。負の歴史を語り継ぎながら、それを超えた真の友好につなげるには―。民間の草の根交流がなお続く。(岩崎誠)

 今も中国電力が稼働させる同町坪野の安野発電所そばに「安野中国人受難之碑」ができて7年。和解の象徴として西松建設と被害者・遺族が共同で建立し、360人全員の名を刻む。この悲劇を調査し、語り継ぐ広島の市民グループ「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」の川原洋子事務局長(67)と、メンバーの栗栖薫さん(87)=広島市西区=が、今月8日にあらためて碑に足を運んだ。

248人の消息判明

 名前をなぞりながら「和解という形で解決したのは良かった」と川原さんは振り返る。会の前身の市民団体による1992年5月の中国・青島での調査で広島刑務所に収監中に被爆し、帰国した故徐立伝さんら安野の生存者に初めて会ったことが、埋もれた歴史を掘り起こすきっかけとなった。

 徐さんは渡日治療を待たず、がんで亡くなる。しかし93年には、後に西松建設を相手取った訴訟で原告代表となる故呂学文さんら2人の被爆者を市民団体の力で広島に招くことができ、謝罪と補償などを求める動きが始まった。98年からの裁判は広島高裁で勝訴し、最高裁では敗訴したものの同社が姿勢を改め、和解での解決が実現する。

 同社が支払った和解金2億5千万円が「西松安野友好基金」の原資となり、まず中国で網羅的な調査が行われて死亡者を含め、受難者の3分の2を超す248人の消息が判明する。1人当たり70万円の補償金が生存者や遺族に支給され、当事者が何より望んだ強制連行の歴史を伝える碑の建立に至った。そして6回にわたって中国から計173人が訪日して現地を訪れ、一人一人の名前が刻まれている碑を通して、心が通じ合ったという。

追悼大会 区切り

 こうした基金の事業は新たな被害者の確認に備えて当初の2014年の期限から3年延長されたが、ことしで役割を終える。区切りとなる追悼大会もこの4月に中国の天津で営まれ、各地から143人が集って犠牲者を追悼した。ことし10月に中国側の基金の運営委員が来日して安野の碑前で開かれる集いが、基金を使った活動の締めくくりとなる。

 25年来、調査活動に加わる栗栖さんは「この地に戦争によって起きたことを、これからも歴史として残さなければ」と力を込める。父が当時、中国人収容所の一つで監視員をし、自分も燃料の薪を集めるため中国人たちと山に入った記憶は今も鮮明だ。「父の思いを継ぎ、何らかのおわびをしたい」と貴重な生き証人として実態解明に大きな役割を果たしてきた。

 今では安野への強制連行はほぼ全容が解明された。戦後帰国した計72人の生存が確認されたが、病気や高齢化で健在なのは4人だけに減った。遺族も子から孫の世代を迎え、憎しみ、怒りを超えた広島側との確かな絆が生まれつつある。

 ただ来年からは恒例となった追悼行事も市民団体の負担となる。それでも川原さんは「今後も中国の人たちを安野に招きたい」と語る。天津の追悼大会では「基金が終わっても私たちの友好と交流は終わりではない」という声が中国側から相次ぎ、自費ででも安野の碑を訪ねたいという家族もいるという。

 「こうした歴史を心に刻み、日中両国の子々孫々の友好を願ってこの碑を建立する」と碑の裏面には記されている。通訳などとして和解事業に関わる中国人で広島大外国人客員研究員の楊小平さん(35)=東広島市=は「過去の悲しい歴史を平和の要に変える友好の碑に」と期待する。日中関係は緊張が続き、他の戦後補償を巡る問題が未解決な中で、安野を通じて育まれた友情の意味は重い。

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 「継承する会」の協力で8月5日、安野発電所への中国人強制連行を学ぶフィールドワークがある。原水禁国民会議などの原水爆禁止世界大会の一環のバスツアーで参加費5千円。申し込みは川原さん☎080(3880)8340。

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過酷な労働 被爆者も

 安野発電所建設工事への中国人強制連行は、日本政府の1942年の閣議決定を受けたものだ。全国で約4万人近くを働かせた135事業所の一つ。軍都広島への電力供給のため計画された発電所や導水トンネルの工事に、山東省済南の収容所にいた297人と、別に青島で集めた63人が船に乗せられた。44年8月に安野へ着き、4カ所の収容所に入れられて過酷な労働を強いられた。食事も衣服も粗末で、病気やけがも続出して脱走が繰り返された。

 そうした状況下で起きた二つの事件をきっかけに、中国人被爆者は生まれた。広島に連行され、爆心地近くで取り調べ中の5人が直爆死したほか、広島刑務所にいた安野の計12人が原爆に遭う。

 安野から生還した人たちも中国で家族離散や生活苦などに直面した。終戦後に外務省が作成させた事業所ごとの報告書が現存し、偽名も含めて強制連行の被害者と出身地が判明していたことが、民間の手による追跡調査で消息をつかむ大きな手掛かりとなった。

 中国人たちは厳しい監視下に置かれたが、心ある住民が寄せた親切も彼らの記憶に残っていた。作業中にけがをした中国人を見るに見かねた年配の女性が、足袋を手渡したこともあったという。その実物を帰国しても長い間、大切に保存していた生存者もいた。

(2017年7月17日朝刊掲載)

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