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社説・コラム

緑地帯 ダルウィーシュが見つめた広島 小泉純一 <1>

 パレスチナを代表する詩人、マフムード・ダルウィーシュ(1941~2008年)が広島の平和記念公園や中国新聞社を訪れたのは74年の7月。翌日の紙面で記事となり、広島で抱いた思いが書き残されている。

 第2次大戦直後のイスラエル建国により、彼が住んでいた村はイスラエルに奪われ、二度とそこに戻ることはできなかった。村はブルドーザーで破壊され、イスラエル側が新しい町をその上につくった。ガザや西岸地域、ヨルダンなどに逃れた者たちもいた。

 ダルウィーシュ一家はイスラエル国内で生きる道を選んだ。彼はイスラエルの学校に通い、小さい頃から詩を書いた。彼の詩を多くのパレスチナ人が暗唱し、人気が高まるにつれて反政府的意図を勘ぐられ、逮捕されたり、自宅軟禁を強いられたりした。

 70年にアジア・アフリカ作家会議からロータス賞を授与され、74年に来日。そしてパレスチナ解放機構(PLO)に加わり、国外流浪生活が始まる。レバノンに本部があったPLOへ、イスラエルが空爆攻撃を始めるのが82年8月。そのさなかに書いた詩「忘れやすさのための記憶」は、広島とレバノンの惨状を重ね合わせている。

 晩年は心臓の病を抱えた。最後の手術を米テキサスの病院で08年8月6日に受け、3日後に亡くなった。この日に手術を受けることで、自分の人生を広島や長崎の惨劇と重ね合わそうとしたのではないかといわれている。(こいずみ・じゅんいち 日本福祉大教授=愛知県)

(2017年7月19日朝刊掲載)

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